デーテーペーな1日

1997.3.1~15

日記関係の発言はこちらで。
3月1日(Sat)
 本日の日記は読まなくてもオッケーです。えぇ、例によって週末恒例の「オフミお出かけ日記」であります。

 そんなものをなぜ書くのか?と言われると・・・純粋に自分のためです。無理矢理にでも更新しておかないと気が済まないと言うのも、実に因果な性分です。まさに日記廃人と自称するのも当然でしょう。
 他の方々は「廃人日記」と呼ばれるとおり、「廃人」が日記を書いているだけで、日記を書くことで「廃人」化している僕とはちょっと事情が異なるようです。いわゆる常識人であるわが家の奥さんには、こういう生活がどうしても理解できないようです。本当のことを言えば理解されると何かと困ってしまうのかも知れません。最近は週末の外出にも何も言わなくなりました。諦めたと言うよりサジを投げた状態?がはははh、どちらも同じですね。

 更に、本日はなんとオフミのはしご・・・「ばっかみたい」と言わないように。これでも色々と時間のやりくりが大変なんですから。いわゆるダブルブッキング状態。何だかメンバーは固定されているような気はします。本日も焼酎ラッパ飲みで、あちこちのご家庭で傍若無人な振舞いに及ぶのか、ラブラブ不遜オヤヂは?

 今から言っておきますが、来週もオフミの予定。午前中は子供たちのクラスの親子遠足もある予定なので、またもや朝のうちに更新する可能性大・・・う〜ん、帰ってから更新でもよさそうなものですが。


3月2日(Sun)
 朝っぱら「おやぢ」からの電話・・・以外と元気そうな声で、例のがらくたのつまったディパックが見当らないとか。充電器から何から一式もち歩いて、どこでも嬉しそうに出して自慢したがる、いわゆる携帯端末フェチな御仁なのです。いつでももち歩く、その安っぽいナイロン製のカバンの中身はと言うと、リブレットとかザウルスなどの「心寂しい人達むけ」電子大人のオモチャという訳です。
 どこか道にでも落したんじゃないのと、とぼけておけばよかったかも。何せ、信号待ちの途中に、車から焼酎の一升瓶ころころと落す人ですから・・・後続の車止めて、その落した一升瓶拾いに行かないように。とほほ。
 車の座席の下にありました。汚いバックが。たぶんダーリンにとってはカバンの中身は「彼女」以上に大事なのでしょう。仕方がないから届けに行きましたとも。わが家に焼酎持参で来られたら困るから。
 しかし、子供たちの為にわざわざ「ひな祭」のケーキを買っていただいた方になんという酷い言い方・・・許せ、焼酎オヤヂ。僕はこんな人間だよ〜ん。

 ひな祭といえば、この日に「はまぐり」食べるのって・・・ひょっとして、えち?何だか卑猥な妄想めぐらすのは僕だけでしょうか。大体、そんなのいつ決ったんでしょう。日本はまぐり協会の陰謀でわ?何事にも男女同権が信条の戦後日本では、そうすると5月5日は松茸食べなきゃいけないのかなぁ。ちょっと季節外れですね。あ、「ちまき」ってのがそれ?きゃー。えち!フランクフルトでもいいか?<もうイイって! 

 う〜ん、本日はBOWDOネタだなぁ。昨夜も素面で色々と酷いことを言ってまわったようです。皆さんあまり気にしないように。本人に決して悪意は有りません。ただ無神経なだけ。


3月3日(Mon)
 とことん状況が追いつめられた時も、僕は誰かに向って「愛してる。」と言ったことはありません。それを卑怯な振舞いとなじる相手の、「愛する」が故の混乱と情熱を、いとおしく抱きしめながら、どこまでも不確かな自分自身に苛立つ事が多かったのでしょう。
 立ち止らないとこれ以上の泥沼でお互いがのたうちまわることが解っていて、ただ無言で虚空を眺めていた夜明けもあったかも知れません。弱すぎる自分自身に目をつむって、ことさらに相手を傷つけることでバランスを取ろうと、愚かしいたち振舞いに及んだことも何度となくあったのでしょう。
 言葉の不確かさを補うためのSEXが、一瞬の快感と引換に僕たちに一層の孤独と後悔を強いることの矛盾こそ、しょせん、人間が持ちうる感情の貧しさの証明に他ならないことを知るべきなのでしょう。

 僕は「愛している」と言う言葉を失ったのではなく、「言葉」の氾濫にむせかえり、過剰故の無力さに絶望しかかっていたのかもしれません。「言葉」以上の確かなきずなを確かめようもない心寂しき人間たちは、今夜もまた空疎な「言葉」の海で溺れ、「愛」とは名ばかりの行為に自らを仮託する。
 お互いの裡なる絶望に気付かぬふりをして弄ぶものは・・・まさに、「虚無ささげる供物」としての絶望と諦念である事をくり返し自問することで、僕たちは辛うじて明日に続く虚無を耐えているのでしょうか?

 別に不機嫌なわけでも不明なわけでもありません。ときどき・・・日常と日記が完全に分裂してしまう事があって、あまり意図のハッキリしない文章を書くことがあります。ひょっとすると誰かに宛てた私信なのかもしれませんが、かといって、あまり信じ込まない方が無難なような気がします。


3月4日(Tue)
 本日は久しぶりにデーテーペーネタで、たまには仕事していることもアピールしたりして・・・しかし、DTP関連の興味からこの日記を読んでる人なんて何処にもいないと思うけど、まぁイイや。

 マクロメディアから久しぶりにFreeHand7Jのアップグレードのお知らせが届いきました。たぶん最近のデザイナーには「FreeHandって何?」でしょうが、ほんの数年前までは「illustrator」のライバルとして、MACの世界ではとても著名なポストスクリプト系ソフトだったのですが・・・う〜ん、過去形で書いたら怒られるかな?
 僕の場合は、この1年ぐらいFreeHandは起動したことすらなかったりします。使った方なら解ると思いますが、あの洗練されないツールバーとパレットの洪水が、まず日常的に仕事に使う種類のソフトとしては煩雑すぎます。まぁそれは慣れの問題だとしても、今さらそうまでしてFreeHandを使い続けなければいけない理由が、まずありません。Photoshopとの連携のまずさが、DTP業界の人間からそっぽ向かれた第1の原因でしょう。常にillustratorに対するアドバンテージを要求されるFreeHandの開発チームに、肝心のセンスが感じられないのがなによりも致命的。もっとも、未だに開発続けているのがビックリですが、アメリカでは日本と違ってFreeHandユーザーが多いようです。しかし、日本版の開発はひょっとするとこれが最後かも?
 マクロメディアのグラフィク関係ソフトをひとつにパッケージングした「FreeHand Graphics Studio」って・・・撤退前の最後の投売り?「FreeHand」も「xRes」も、いまさら使う人いないでしょうけど「Fontographer4.1J」目当にアップグレード申込む人は、けっこう多いかも知れません。え?僕ですか。勿論そんなもの注文する訳ないじゃないですか。使わない業務ソフトなんて、必要ないという以前にただのゴミ。

 あぁ・・・ア社のFreeHand担当のゾノ泉さん、実に申訳ない。しかし・・・いまさらFreeHand使って何をどうしろと言うの?もはや終ってしまったソフトでしかないのは、誰もが承知している筈。今からFreeHand買わせるのは、ほとんど反則かも。illustratorで何の不足もありませんてば。


3月5日(Wed)
 「モラルアニマル」って、ただの強姦魔の言訳なの?何だか、いにしえから言古されてきた「オス」の妄想の様な気はします。

 「利己的な遺伝子」とか、さらには「カオス」・「複雑系」等など、某所で交される某くんの特異な言葉には、非常に卑近なイメージが付きまとうので、一見すると解ったような気になるから厄介です。なんだかイメージの中だけで「愛」を語っているような気がして、相当に無謀な企てだと思うのですが・・・まぁ、ご本人達には肝心の「愛」そのものはそれ程重要な問題ではないのでしょう。
 そもそも「頭の良い」=「研究職」=「シャイで女も口説けない」人達って、遺伝的に優秀なんでしょうか?僕にはどうも劣性遺伝子の様な気がするんですが?「進化」って奴は、もっとけだものじみたものじゃないのかなぁ?

 で、ここからは何時もの展開に・・・

 こんな社会だからこそ地位だの名誉だのにすがって生きる老人が多いようですが、なに、ちょっと世界が負の方向に向えば一気にそんなものはドブに捨去られて、よりよく喰う者が強いという、別の意味で解りやすい世界がすぐ間近に迫っているような気がして仕方がないのです。どう考えても、この地球上で数十億の人類が等しく現代文明をいつまでも享受できるなどとはとうてい思えないのです。ありふれたエネルギー枯渇論を持出すつもりはありませんが、科学至上主義によるバラ色の未来なんておとぎ話を信じるほどには楽天的になれそうもないのです。今の若者達も、そんな事を信じてる世代はもはやあり得なような気がします。
 世紀末の予言で語られる、世界のおわりに空から降ってくる恐怖の大王とは、他ならぬ僕たち自身の醜い欲望の事なのかも知れません。

 「愛」について語る自己を「愛する」ヒマがあったら、SEXの1回でもやった方がよほど「愛」にとっては有意義だと思うのですが、そのあたりの実践に関しては如何?
 う〜ん、最近はとみに言葉遣いがアケスケでいけません。本当なら「きゃー」のひとつも挟むところですが、一部方面で何かと評判が悪いのが「きゃー」の多用の様ですから、ここはじっと我慢。


3月6日(Thu)
 妻帯者の日記者にとって、「奥さん」に読まれているというのは、かなりのハンディキャップのような気がします。まぁ、別に家庭内SEXについて熱く語ろうと思う人もいないでしょうが、家庭の裏側を公開する事には何かと差障りがありそうなのは自分を振り返ってみてもそう思えます。
 来客が有るとなると憑かれたように掃除始めて、こんな処で誰が生活するの?と思うほどに部屋中片づけてみたり、そのくせ朝飲んだコーヒーカップの置場に困るほど汚れた食器が山積みの流しとか・・・きゃー。わが家のこんな事情を公開するからバレたらまずいんでしょうね。はい、汚れものに気が付いたらとっとと自分で洗えばいいだけの話しでした。その上、過去のあけすけな告白なんゾをやらかそうモノなら・・・ひと騒動おきるのはいずこの家庭もご同様。
 しかし、そうは言っても世の中にはいろんな方がいらっしゃる。自らの体験を赤裸々に語ることに執着する、いわゆる「告白マニア」等もいらっしゃるようなので、その裡、匿名で「おやぢな交接日記」なんゾを始めるひとが必ず出てきそうな気はするんです。あ、そこのあなた、何でしたら今から始めませんか?文章力が必要かも知れませんが、生々しい描写につまらない美文調は似合わないので、素朴な文章の方がより一層共感をうむような気がします。
 しかし、うっかり始めてしまったこの「公開日記」がこんな事態になっていようとは・・・一年前には想像すらできませんでした。う〜ん、こんな事なら僕も完全に匿名で日記始めるんでした。ちょっとやってみたい気がする「交接日記」<きゃー<コレって便利<まねし。

 ここは私信も有りの「ちび字コーナー」ですから、そんなネタも少々。
 スキーなんてぜんぜん羨ましくないです。くそ寒い季節に外でスキーなんてのは、僕に言わせれば夏に水泳するようなもの・・・あぁ、これって合ってる?


3月7日(Fri)
 今日は午後から今年度最後の保護者会と言うことで学校まで出かけました。
 まぁ、その会合の中身と言えば、口べたな先生と奥さんとの弾まない会話が何時もの展開の筈なのに、今日はなぜかちょっとしたハプニングが・・・めずらしくもうひとり出席していたお父さんが、「少しお話ししたいことがあります。」と始めたのが、入学式や卒業式の式典での国旗掲揚と国歌斉唱の強制を止めて貰いたいと学校側に申入れしたと云うその方の去年のいきさつと、日本帝国主義の象徴たる国歌と国旗の不当性についてなのですね、これが。
 おっしゃることに異存はなかったりします。至極もっともかも・・・ただ、日教組すら妥協してしまった国歌と国旗についての是非を、PTAの保護者会で熱く語るその方の「情熱」の由来がいささか気にかかるのです。
 「民青くさい」と書いても、ほとんどなんのことやら解らない方ばかりでしょう。いわゆる「教条主義」に過敏に反応するのは、まぁ、僕自身の古くさいトラウマなのかも知れません。こう書くとご理解いただける方は多少はあるのでしょうか?
 僕自身の思いは、と言えば、校長や担任教師に国歌や国旗に対する踏絵を迫ることも結構ですが、そんな事にどんな意味があるのかと云う処でしょうか。はい、僕は学校側の対応などにハナから期待するものはありません。気味の悪い時代の気配は確かに何処からか迫りつつあるのかもしれません。国連への自衛隊の派遣以降のなし崩し的対応も、そうした時代の空気のひとつなのかも。
 ただ・・・反戦教育も愛国教育もどちらも手遅れなぐらいに、この日本の現実は病んでいるような気がするのです。イジメで自殺する子供たちや、関わりを拒絶して餓死する老人達のニュースが絶えないように、もはや何を持ってしても止むことのない破滅の予感に、この国は蝕まれているようです。そう、みんなそれに気付かないふりをしているだけかも。

 いつもくらい予感ばかりで、なんら未来への展望のないのは、子供を持つ親としてははなはだ不本意なのかも知れません。何かしら「かたち」にならないものが、いつも頭の何処かで共鳴しているような・・・やはり不吉な予感としか呼びようがないようです。


日記関係の発言はこちらで。
3月8日(Sat)
 あぁ、許されよ・・・先週が「オフミ」のダブルブッキング。今週は「親子遠足」と「オフミ」のダブルブッキングなどと言う、訳の分らない暴挙にでた模様です。この日記がいつアップされるかは、本人にもいまだ不明です。なぜにそうまでして日記を書く?とにかくまだ明日になってないんですから。きゃー。

 と言う事で、これは本日の「予定日記」とでも呼ぶべきなのでしょう。本当の日記は帰ってから書くのかも知れませんが、とにかく出かけた後の予定なんて誰にも判りません。新宿のまちなかで突然死する事だってあるでしょう。

 で、朝からの予定は小金井公園へ親子ともども担任の先生交えての遠足と言うことになっております。ご近所の方、何だか馬鹿ズラした親子連れが小金井公園をぞろぞろ歩いていたら、その中にテロルオヤヂも居るものと思っていただいてよろしいかと。

 適当に遊んだら、あとは夕方のオヤヂなオフミのために新宿まで再度出かけることになるのでしょう。う〜ん、なぜか不穏な予感漂うオフミとなるのかも知れません。きゃー。もう僕はしらん・・・

 例によってまたもや何処ぞで怒られているのかも知れません・・・いえいえ、非常に判りづらい個人的な事情ですので、あまり深読みしても意味はありませんてば。特に思いこみの激しい方なんゾはご注意の事。


3月9日(Sun)
 他局では愚にもつかない「国民アニメ」等を懲りもせず放映している日曜日の夕刻・・・いわゆる家族団らんの時間帯に「痴呆老人」や「エイズ」等の暗い中身の報道番組が続いていることは、それなりに人気を集めているからでしょう。日本のテレビ局が資本の論理以外で日曜のゴールデンタイムの番組を決定する筈もなく、アニメにもスポーツにも興味のない世代がこうした番組を支えているからこその結果なのでしょう。
 明日はわが身などと言いながら、所詮は他人の不幸は蜜の味で、自分たちだけはこんな厄介ごとには巻込まれるはずがないと、僕たちは大した理由もなくそう信じているのかも知れません。だからこそ、人間としてのIdentityを喪失する「痴呆」に一層恐怖が募るのかも知りません。
 しかし、人間というモノはそれほどに貧相な心しか持ち得ない存在なのか?記憶力の低下や見当識の混乱によって、それほど簡単に人間としての感情が失われてしまうモノなのでしょうか。
 初期症状の痴呆症の老人に顕著な「徘徊」を過去の習慣への郷愁や代償行為として簡単に判った気になるのはなにやら不遜なような気がします。まったく外界への認識を失って寝たきりになった老人達の萎縮した脳細胞が、もはや何の夢も見ないと断定するのは、つまらない科学思想に毒された人間の思い上がりでは?人間の頭蓋骨の奥で営まれている思考を直接見た人間は誰もいない以上、アルツハイマーと診断された老人達の萎縮した脳細胞が、はたしてどんな夢を見るのか?誰にも断言することはできないはずです。

 街を徘徊する老人達の映像にことさら悲しげなBGMを流すのは、まぁ・・・相変らずの「テレビ流」としか言いようがないのですが、そうした痴呆老人の心の裡に流れるのは、テレビ局が押しつけようとする心象風景とは違う気がして仕方がないのです。出口のない回廊を深夜まで彷徨する人間をつき動かす動機は、「愛」などではなく、やはり、たぎるような「怒り」なのでしょう。


3月10日(Mon)
 何だか池田満寿夫が死んだそうです。まぁ、そう聞かされても僕は彼の「絵」にも「小説」にもなんの興味もありません。しいて気になる事と言えば、彼自身の人間性ぐらいでしょうか。池田満寿夫と云う人物に、他者から評価される才能が備わっていなかったとしたら・・・彼はただの性格破綻者の様に見えるのは僕だけでしょうか?「バクハツ」の方を思い出すまでもなく、テレビ的にもてはやされる文化人の類はすべからく奇人変人の巣窟のような気がします。「天然」なだけの方なのかもしれませんが。
 絵画の世界の評価と云うモノには嫌らしい商業主義の腐臭が常に付きまとうだけに、テレビでの露出とは裏腹に、マスコミにウケの良い画家として、いわゆる「画壇」内部では冷笑を浴びているような印象があるのです。彼を有名にした版画と云うジャンルも、そのあたりの評価に影響しているのかも知れません。彼が「絵」の世界で位置する処は、決して主流ではあり得ないのでしょう。
 更に言えば、およそ余技でしかない小説で文壇的なスタアに祭り上げられたことも彼の不幸を一層加速させたのかもしれません。いやいや、世俗的には彼は何も不幸を嘆くような人生ではなかったのかも。ただし、あの恐そうな籍の入っていない「奥さん」を公式の場に連れまわる彼の結婚生活を除いては・・・

 落合夫人や野村夫人とかに雰囲気が何だか似てませんか?あの奥さんは。とっても恐そうで、僕なら思わず萎えてしまいそうなタイプです。
 既婚・未婚を問わず、こんな相手とSEXしてるのねと、暗澹たる思いに包まれるカップルはとても多いですね。まぁ、そんな事を妄想している人間自身、かなり不幸なのかも知れません。えぇ、だから僕自身の奥さんは「非公開」にしておきます。


3月11日(Tue)
 今度は萬屋錦之助が死んだそうですが、いくら話題がないからと言え、2日続けて新聞の死亡記事ネタに日記書くのは反則くさいのでヤメ。しかし・・・「勝新」もそろそろか?

 これと言って代りばえのしない日常ばかりで、仕事を含めて、まるで何もヤル気がありません。まぁ、もともとヤル気満々で人生暮している訳ではないので、それほど日常に面白味が無いのは当然かも。いわゆる「ぬるま湯的状況」なのかも知れません。毎日が楽しくて仕方がなければ、「日記廃人」な生活を送ることもないのでしょう。そう、何故か日記の更新だけはなかなか止みません。
 人間をつき動かす行動原理には・・・別に心理学を持ち出すまでもなく、何かしら満たされないモノに対する欲求の代償行為が多いような気がします。家庭や社会で見失ったモノを、電脳の海で秘かに探し回ってみるのですが、手にした「それ」のあまりに不確かで壊れやすいカタチに一層焦燥感を募らせてしまい、それ故に、決して倦むことがないのかも知れません。
 そう、とても孤独な人間が多いような気がします。群の中にいても外にいても、常に他者の存在を意識して生きてきた人達が偶然見いだした世界は、「求めつつ恐れる」と言う、電子の海に特有な関係性に満ちているようです。その事に救いを見いだした人が、今夜も秘かにキーボードをカタカタと鳴らし、HTMLのタグの陰で、じっと息を潜めて何かを待ち続けているようです。

 昼間からケーブルテレビで放映される映画を、ただボンヤリ観てたりします。どんなにくだらない映画でも、一度見始めてしまうと結末が気になるモノです。で、呆然と2時間あまりを無駄にすごしてしまうのですが・・・だからと言ってそれ以外の時間を有意義に使っている訳でもありません。はい、本日もまた無為な一日だったようです。


3月12日(Wed)
 一応夕刊を見る限りでは本日は大した人は死んでいないようです。2度あることは3度で、今日も誰か死なないかと秘かに期待していたのかも知れません。がはははh。相変らず不謹慎な人間のようです。

 映画界で言えば「市川昆」とか「黒澤明」とかの大御所監督、もうそろそろ死んでも何処からも文句のでない筈なのに・・・なかなか死にませんねぇ。そう言えば、世界の三船もただの「ボケ老人」となってしまったようですが、惚けてからが意外と長生きなのは皇太后の例でも明らかのようです。きゃー。皇室関係をネタにするのはヤめれ。
 いえ、別に有名人の死ぬのを待っているわけではありません。待たなくても否応なく死んでいくのが世の習いで、時間の長短にはあまり大した意味はないのでしょう。80歳まで長生きと言われても・・・最後の20年間は病院のベットで寝たきりなんて人生は、僕にとってはなんの意味もありません。そもそも、自分の老いを意識するあまり、健康維持のためにジョギングやったり自分のオシッコ飲んだりするのってビンボー臭いじゃないですか。永年健康管理に注意して節制と運動続けても、ぽっくり死ぬ人はいるし、半年に1回定期検診受けていても手遅れの癌と宣告されてしまう人も多いようです。
 そう言えば、ニュースなどで死者が病院から自宅に戻る様子をよく放送しますが、担架の上でシーツにくるまれて運ばれているとなぜか非常に生々しく「死」を意識させられます。まぁ、文字どおりの「死体」に人は不安になるようです。だからこそ死を「もの化」するためにも棺が必要なんでしょうが、その棺ごと死者を骨になるまでとことん焼き尽してしまう日本の葬儀というのは、あまりにもサッパリしすぎるような気はします。土葬の習慣も地方都市ではつい最近まで残っていたようですが、都市化と火葬場の数にはひょっとすると相関関係があるのかも知れません。最近は何だかお洒落な葬儀場もあちこちに出現してようで、「死体」はビジネスの道具としてこれから重要視されるのかも知れません。

 どうせ人間の一生なんて偶然のくり返しなんですから、死ぬときも偶然でなんの不満もない筈なのにと、僕は思うのですが・・・


3月13日(Thu)
 本日はマジでネタなし・・・しかし、つくづくテーマの決った日記の更新はラクチンです。まぁ、強いてあげるなら「人生」がこの日記のテーマなんです。<きゃー。キザすぎ。

 で、人生について熱く語るかといえば、そんな事はありません。いつもの如くお馬鹿ネタでしょう。
 最近気になる事と言えば、なにやら週刊誌やワイドショーにチラチラ出てくる「オウムシスターズ三姉妹」の長女と婚約だか結婚だかをしたらしい脳機能学者(なにそれ?)さんの事です。
 まず名前からして怪しすぎると思うんですが・・・苫米地(とまべち)さんて名字は非常にインパクトありますね。もうこの名前みただけでマインドコントロールフェチな方達にはゾクゾクするんでしょう。後はあの妙な顔と相まって、何となく「教祖」の風情が漂っているような。その内に「洗脳革命」なんて本を出版して大ベストセラーになったりして?
 最近話題の「脳内革命」の作者やらフナイ某氏とご同様で、非常に胡散臭いオーラがあちこちから漂っているような気がするんです。いわゆる「とんでも」関係者?
 まぁ、大した根拠があってそう言ってる訳ではありません。いつもの通り断片的な情報と第一印象だけで、ただただ無責任に決めつけてます。はい、何だかやたらと胡散臭いだけなんです。う〜ん、「オウムシスターズ」と結婚ねぇ・・・

 なんだか、心寂しい人達が多すぎます。噴飯モノの「理論」や「思想」に易々と捉えられるのは、僕たち自身の社会がそうしたいかがわしいシステムの元で動いているからでしょう。政治も経済も、あまりにも安易な道に流され過ぎてしまっているようです。「ココロ」までもそんなに簡単に理解できて良いんでしょうか?


3月14日(Fri)
 誰もがうんざりしているのに、あからさまには「それ」について語れないからこそストレスがたまるんでしょう。そう・・・オウム裁判の中心となるべき麻原彰晃自身の公判が、国選弁護団の出廷拒否で空転中などと聞かされると、国家が裁く「裁判」と言うモノの滑稽さとウソ寒さが、図らずも露呈してしまったようです。
 何処から急かされているのか、結論のすでにでてしまった審理のスーピードアップを言いつのる裁判所側と、安い国選弁護料でこんな裁判なんかやってられるか、と言う弁護士側の本音がきしみをあげているようです。そこには裁かれる「麻原彰晃」はもちろん、サリンによって殺された被害者達の姿も見当らず、寒々とした法曹界の人間達の「こころね」の卑しさだけが目に付くのです。いわゆる茶番劇?に見えて仕方がないのです。
 国家に対するあからさまな挑戦と断じた「地下鉄サリン事件」の首謀者に対しては、いかような理由を付けてでも処罰したいのが国家の意志なのでしょう。その為には手段を選ばず、ただただ迅速な判決、つまりは麻原彰晃の「死刑」を確定したいだけ。お仕着せの国選弁護人は選ばれた己の不運を嘆くだけで、肝心の裁判ではまともに弁護する気はなさそうです。「サリン使って何が悪い」「タントラバジラヤーナは正しい教えだ」とかって言切ってしまう弁護士はどこかにいないんでしょうか?宗教と国家について激論を交す法廷ってのはスリリングだと思うのですが、まぁ・・・今の日本じゃ無理なんでしょうね。
 裁判所の訴訟指揮権に対する危機だとかなんとか、またぞろ「弁護人抜き裁判法案」などが提出されることになるんでしょうか?「オウム」に対してはいかなる捜査や調査が許されるかの様な警察当局の対応や、今回のように、なにやら苛立つ裁判所と云い、時代の空気はどうもキナ臭いような気がして仕方がありません。

 上辺だけの法治国家をかたって、正当な手続に固執するからこそ何かと面倒なのでしょう。国家に対する反逆罪とでも断じて即決裁判で「死刑」が、お望みなのかも知れません。まぁ、こうしたドタバタ劇をくり返す「法治国家」に住むからこそ、僕のようにお気楽な感想も許されている訳です。拘置所での健康的な生活で長生きするでしょうから、麻原彰晃のドタバタ裁判はこれからも延々と最高裁まで続くのでしょう。


3月15日(Sat)
 なんだかPTAネタも最近はぜんぜん面白味に欠けるようです。もともとが飽きっぽい性格なのでよく1年間も続いたなぁと思います。あぁ、日記のネタにしたから続いたのかも。
 しかし・・・相変らずあたま悪そーな会議が続いてます。いちど採決をとった筈なのに、何処ゾのおかあさんから一言あると、そうして決った筈の議題について、もう一度最初からガヤガヤやり出すのは勘弁してもらえないでしょうか?何処からが議論で何処からが結論なのか、堂々巡りでサッパリわかりません。前回の運営委員会で確か決った筈なのに、もう一度採決とってみると、今度は否決されたりして、もう僕なんゾには今後の展開はまるで読めません。何だか「村」の寄合いで談合してる気分・・・まぁ、何となくという、日本的曖昧さの中でPTAは運営されているようです。
 そうそう、この1年間に持った会合の数へのおかーさんたちの異常なこだわりもなんだか不思議です。クラス委員の会合が4回でも5回でもいいじゃないですか。どうせ中身は、おかーさん連中の只の井戸端会議なんですから。そんな数の訂正が延々有ったりして、もうぐったり。
 で、あれこれ問題山積のPTA規約について、規則に不合理があるなら規則自体を変えてしまえってのは、けっこう乱暴だけどなかなか魅力的なオプションにおもえます。いっそのことPTAなんて組織自体を無くしてしまってもいいんじゃないんでしょうか。毎回毎回役員決めるためにあたふたするぐらいなら、お仕着せのPTAなど無い方がいっそせいせいするかも。

 性別に関してとやかく言うとジェンダーフェチな方から抗議受けそうですが、まぁ、この際だから言ってしまいましょう。えぇ、PTA役員は僕以外は全て女性です。という訳で・・・とにかく下らないです。女性が複数集る「場」と言うモノは。話題の幅が狭いのはまぁ良いとして、自己にも他者にも無自覚すぎるのはほとんど絶望的。お付合いにもいい加減疲れます。なに、あいてもそう思ってるって?う〜ん、この日記も結構おばさん化してるかも知れませんね・・・あぁ、やっぱり説得力なしかも。


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