デーテーペーな1日

1998.12.16~31


日記関係の発言はこちらで。

12月16日(Wed)


 今度の土曜日にPTAのお母さん達が主体になって学校で「お楽しみ会」をする事になっているんですが、後になって聞かされた処によると、当日は同じくPTA本部の委員が主催する講演会などもあって、そっちを準備しているお母さん達から、「なんで同じ日に『お楽しみ会』なんてやるんですか、こっちの加者が少なくて、せっかく講演会にお呼びした講師の先生の手前とっても困ってます。」などと怒られたり・・・どうせ「現代の子供達をとりまくイジメと自殺」なんぞといった辛気くさいテーマの講演会なんでしょう。人集めが目的なら、いっそのこと「中年主婦の不倫願望とSEX」なんてテーマだったら参加者殺到すると思うけど。
 その日は僕は外出の予定があるからやりたい人が勝手にやればと任せておいたんですが、名目だけは僕が主体になってるから仕方がないといえばそうなんですが、そのあたりの日程は僕が決めた訳じゃないんだけどなぁ。お陰で各方面から勝手な奥さん連中のお小言やら陰口頂戴していい加減ウンザリ。女性が複数集った集団ってのはこれだからヘキエキさせられます。
 所詮PTAなんてイヤな役割を押しつけあってるだけの単なるお飾り団体なんですから、なんだって良いじゃないですか。

 先生は相変らず頼りないし・・・まったくもう、萎え萎えですわ。

 そうか、日記書かなきゃと思いつつ、なんとなくぼーっとしている事が特に多いようです。
 久々のPTA萎え萎え日記も何れにしても今ひとつです。



12月17日(Thu)

 う〜む、困ったなぁ。そろそろ子供達のクリスマスプレゼントを買いに行かないといけないんですが、去年までは子供達にサンタさんにお願いしたプレゼントをこっそり聞き出して、なるべく彼女たちの希望にそったものを買物していたんですが、今年は麻美が頑として白状しない訳です。正美に聞いても麻美がお願いしているものは知らないと言うし、なにやら夜寝る前にもこっそりお祈りしているらしいのですが、去年までのようにサンタさんに手紙を書いて窓に貼っておくなんてこともしていないようです。
 「今年は本で良いよ、お父さんにそう言っといて。」などと、正美はすっかり醒めた目で世の中眺めてるようですが、麻美はまだまだサンタの存在を信じているようなので、こんな場合は何かと面倒です。
 思いつめるとどう言い聞かせても納得しない性格の麻美から、すんなりと訊き出すのは難しそうなので、ここはやっぱり麻美の事を一番知っている正美に調べさせるのが一番確実なんですが・・・今から正美と共犯者的連携プレイってのもかなりイヤなんですが、さてどうしたものか。
 やっぱり本人を誘導尋問にかけて徐々に白状させるというのが一番確実かも。まぁ、麻美の事だからどうせ「ハヤリもの」のひとつだと思うので、多分ポケモン関連かも。流行から取り残されてるわが家としては、ひょっとすると「てくてくエンジェル」なんて言い出すのかもしれません。そういえば去年のクリスマスプレゼントは確か「たまごっち」だったかも。

 コマーシャルに影響されやすい麻美のことだから、きっとテレビで頻繁に流れる商品だと思います。で、1週間もすると飽きてるというのがいつものパターンなんですが・・・そのあたりはあまり父親も強くは言えません。えぇ、何事にも飽きっぽいのは子供達以上なんです。



12月18日(Fri)

 やれやれ・・・どうにもこうにも、ここまでサイテーな仕事というものを今まで経験したことがありません。年末進行でなにかと気ぜわしいこの時期になっても未だに原稿の出る日さえ決らないで、一体どうして仕事を進めると言うのかなぁ。
 印刷の予定すら組んでなくて、それでどうやって正月折り込みに間に合せようとするんだか。つくづく呆れ果ててますが、ご本人達は至ってのんびりしてるから救いようがない人達です。

 FONT SIZE="7"で叫んでみたところでなにも変るわけもなし、ひたすら呆れ果てながら細々と仕事するしかないのが悲しい世の中です。
 バブル華やかなりし頃ならこんなクソ仕事、誰がどう頼もうとも金輪際お断りだった筈なんですが、何せこんな時期ですからブチ切れそうになりながらも仕方なくやるしかないようです。とほほ。

 代りのお仕事が入ったら、こんなクソクライアントなんて真っ先に放り投げることにします。ケッ!

 日記書きにもいい加減萎えてるというのに、お仕事でさらに萎え萎え。仕方がないので「憂さ晴し日記」書いてみても、結論でさらに萎えるというのも最近のありがちなパターンです。



12月19日(Sat)

 人間70年もやってきて、その死すべき原因が癌だから「最悪のシナリオ」とかご大層に騒ぎ立てる山岡久乃って、いったい幾つまで生きれば、あるいはどういう死に方なら満足のいくシナリオだと思えるんでしょうか。
 10才から売春を強要され、やがてはエイズウィルスにおかされて早晩死すべき運命にあるソマリアの少女とか、母親の無理心中の巻添えで真っ黒に焼け焦げて死んでいった5才の子供の死のシナリオは、女優・山岡久乃が手渡されたシナリオと比べて果してどれほどに「最悪」なのか・・・ある日眠りについたまま、それっきり目が覚めないなんてのはそれはもうとってもラクチンな死に方だとは思いますが、そんなふ抜けたシナリオじゃ今時幼稚園児も感動させることなどは出来ないような気がします。
 「恥を知る心を棄てたものがよく啖い、人を多く殺した者がなりあがった。」 乱世に生きる人間の生き様を語った小説の中の一節ですが、まさに僕達が生きる「現代」もまた、そうした乱世そのものと言えるのかも知れません。そんな乱世に70年も命を喰らって生きながらえてきた人間としては、もうそろそろ納得して死んでいっても良い頃なんじゃないでしょうか。誰にとっても己の死は受入れがたいものであることは確かですが、何れにしても死ぬことには変りがないんだから。
 かくのごとき世紀末・乱世の時代を生きている人間とすれば、本当の処を言えば最後は山犬にでも喰われてその腹の中で消化されてこそ食物連鎖の輪の中に加わっている一個の「生き物」である己を実感できるんでしょう。しかしながら、いまの世の中では「山犬に喰われる自由」などはもっとも難しい類の自由なのかも知れません。
 凡百の宗教家の説教よりも、山犬に喰われる人間の姿の中にこそ生きていくことの意味はある筈です。

 何れにしても、「死の病」というものにヒトは興味が尽きないようです。あと何ヶ月の命と宣言されることは、それはそれでなにかと都合の良いこともありそうな気がします。恐らく死に至るまでのその数ヶ月間に味わう「恐怖」と「自由」というものにいつも興味があります。



12月20日(Sun)

 朝から出かけたっきりの子供達が帰ってきたのは6時前で、あたりはもう真っ暗。よくまぁそんなに1日中遊んでいられるものだと思うのは大人の身勝手な言いぐさで、子供にしてみればいつまで遊んでいても遊び足りるなんて事はないのかも知れません。正美なんぞは未だに遊び足りない様子です。
 イベント好きというか、要は遊ぶための口実なんでしょうけど、自分達でケーキ作ったりおやつとか飲み物持ち寄ってお友達の家でクリスマスパーティだとか。
 なにをやっているのか気になっていろいろと訊き出してみると、それはもう・・・やりたい放題だったようです。
 ディズニーのアニメをそのままパクって「美女と野獣」のお芝居をやるんだと張切っていたようです。本人達によれば大成功・大拍手だったという話しだけど、正美の作・演出じゃどうせろくな出来じゃなかったはずです。最初の意気込みだけはすごいんですけど、途中でだんだんしりつぼみになって、結局はいい加減なままでオシマシというパターンは何事においても繰返されるもののようです。その他、振り付でカラオケ歌いまくったらしいんですが、あまり詳細訊くと滅入りそうなのでそのあたりの事はあえて訊きませんでした。えぇ、きっと親が見てたら恥ずかしくて逃出したくなるような気がしますから。

 奥さんはお買物だとかで、これも帰ってきたのはやっぱり夕方。これもあまり詳細は訊けないのかも。



12月21日(Mon)

 子供達は今日から短縮授業で1時前には学校から帰ってきたようです。奥さんは子供達の昼食の準備が面倒くせーと、なんとなく不機嫌そうなので、さっそくマクドナルドのハンバーガなどを。
 1ヶ65円のハンバーガーってのも一体どんな原価計算から成立ってるのか、そのあたりがいささか不安。でも安いからビンボー人家族にはなにかと大好評のようです。

 「ハンバーガー単品で4ヶとポテトのMサイズ1ヶ。飲物はいりません。」

 がはははh、ドライブスルーでこんなビンボーくさい注文するのはちょっと恥ずかしいけど、親子4人の昼食代が525円って、激安です。うん、セットメニューなんぞでごまかされないように、こんな場合はあくまでもハンバーガーは単品で注文しましょう。飲物は家に帰って珈琲でも飲めばいいんだし、子供達は牛乳でも飲ませておけばそれでオッケーです。

 65円のハンバーガー・・・昔に比べていささか小ぶりになってるように思えるのは気のせいでしょうか。まぁ65円だから良いか、ってやたらと65円にこだわるのもいい加減にしないと。

 いい大人がこんなもの1ヶで昼食ってのは相当に貧しい食生活のような気がしますが、昼食があるだけマシと思わないとわが家では暮していけません。うっかりすると珈琲だけって時もかなり多いかも。



12月22日(Tue)

 年々子供達へのクリスマスプレゼントを選ぶのに苦労してます。小学3年生にもなって、いまさら「秘密のアッコちゃん」の変身コンパクトでもないだろうし(もらえば嬉しがるような気もしますが)、なにかと迷うところです。
 麻美はサンタさんにお願いしてるのは単に素敵なプレゼントをお願いしますと云う事だけで、具体的になにが欲しいのかと訊いてみると「わかんない。」そうです。
 う〜ん、相変らずバカみたいなお返事しかできないのは、本当に自分が欲しいものが判らないせいです。自らが望むものがよく判らないと云うのがいかにも飽食の時代に生きている子供なのかもしれませんが、どこかしら子供らしさが感じられないのが今ひとつ不審です。なにかを渇望して悶々とすることのない子供時代なんて、それが幸せであるとはどうしても思えないからなんですが、そんなちっぽけな現状に満足している子供達の様子がなんとなく気に入らないと言うのも、親としてはどこか間違っているような気はしています。

 あちこち売場を廻ってみたんですが、今日の処はなににするか決められませんでした。正美は本で良いと思うんですが、麻美は「本はヤダ。」と、それだけはハッキリしてるからなぁ・・・欲しいものはよく判らなくても欲しくないものはすぐに思い付くというのもまた、現代っ子の特徴のひとつなのかも知れません。

 明日の買物はめちゃめちゃ混むんだろうからホントは今日買っておければよかったんですが・・・やっぱり「秘密のアッコちゃん」の変身コンパクトにしておくかなぁ。

 最近ラブラブらしい名古屋方面のバカ日記書き(バレバレやん)とこれからオフミなのかなぁ・・・今ひとつ予定がハッキリしないので詳細は不明ですが、なんとなく「寂しく壊れるオフミ」になりそうな予感なので早めに更新しておきます。
 メンバーがメンバーだからちょっと不安。



12月23日(Wed)

何度もわたしの名前を呼ぶ

「・・・・・・・・・」

耳元で囁くように
自分自身に確かめるように

その度にわたしは
「あなた」の裡にいっそう深く
わたし自身を埋める

「・・・・・・・・・」

悲鳴なのか喜悦なのか
ないまぜになった感情が「あなた」をつき動かし
淫らにわたしを咥えこもうとして
今度は
何度も「イヤイヤ」と首をふる

「・・・・・・・・・」

何度も「イヤ」を繰返すのは
つまりは
その快感の深さを恐れるあまりなのだ

ヒトを求めるココロに際限がないように
満たされた欲望の深さに
今夜の「あなた」は
どこまでも墜ちていく
或は虚空にむけて浮遊する

「・・・・・・・・・」

際限もなく求めることで
満たされぬ「想い」を取繕うには
「快感」はあまりに刹那的であり
持続する「記憶」の理不尽さを嘆くには
私たちの「時間」は
未だ未完のまま
ここに「在る」ようです

 「暗闇」の中で繰り返す妄想を「白昼」にする事にも似て、コトバを弄ぶ度に危ういものを感じながら、しかしやめることが出来ないのは・・・つまりは「白昼」故か、妄想のせいなのか。



12月24日(Thu)

 麻美などは未だに「サンタさんは煙突のない家にはどうやってはいるんだろう?」などと実に無邪気に父親に尋ねたりするんですが、「今夜は、煙突のないおうちは一晩中玄関の鍵をかけないでおくんだよ。」と、例によって無責任なデタラメを吹込むと、妙に納得するところが「あぁ、やっぱり」なんですが、正美などは「そうそう、ベランダの窓も鍵かけちゃだめなんだよ。」と言いつつ、共犯者の目つきで父親を見返してる処が実にもう・・・ガキながらに喰えない人間です。いまからこんな風で夢をなくしては、これからの人生をどうやって過すつもりなんだか。絶対イヤなタイプのおんなになりそうな予感がします。
 そんな無邪気でおめでたい奴とひねくれ者の姉妹二人ながらに喜ぶモノを選ぼうとしても、もうなにが良いんだかさっぱり判らなくて、いい加減面倒になって適当に選びました。そう、なにかと面倒なクリスマスプレゼントのことです。
 「遊び図鑑」と「自然図鑑」という、ムック風の本をそれぞれに。正美が何故かストップウォッチが欲しいと言っているのでそれも一緒に包装して、麻美には「キティちゃんのアラームつき時計電卓」って、ちょっと幼稚すぎたかなぁ・・・まぁいいや、幼稚なのは間違いないので。

 子供が小さい内はプレゼントというものは親の側にも選ぶ楽しみがあり、要はなんであっても無邪気に喜ぶ子供の姿を眺めては、なにやらふんわりとした気分などを味わう事もできたのですが・・・なんとなくこころ弾む部分が年々薄らいでいくように思えるのは、親子共々にそうした幻想のカタチにそろそろ気がつきはじめたせいなのかもしれません。

 スモークサーモンって妙に生臭いんですが、そもそもそれが本来の味なのかどうかもよく判りません。牛のタタキってのも肉なのか刺身なのか「ハッキリしろ!」って感じ。
 奥さんの買ってきた「オードブルセット」の中に入ってたんですが、子供でも居なければこんな妙な代物を食べる機会もなかったような気がします。クリスマスだからってなんで「オードブルセット」なんだよ。



12月25日(Fri)

コトバなどなければ・・・

いっそ人間はかくの如くに
思い悩むこともなかったのかも知れません

コトバを交すことで得たモノと失ったモノの総量は
果していずれの側に振れることになるのか

コトバだけが唯一と思い始めたときから既に
わたし達の結末はあらかじめ約束されていたような気がします

揮発するコトバを繋ぎ止めようとして
際限もなく繰返すのは
即ち
徒労なのだと知りながら
それ以外には頼るモノを知らぬわたし達は
あまりに脆弱で
危うい予感という名の日々の前で
いたずらに怯える
無力な生き物のようです

きっと此処は
野に咲く花さえも見当らぬ
そんな不毛な大地なのでしょう

そこには結晶化した花だけが
無機質の大地に根を降ろし
手折られることを拒否しつつ
薄闇の世界にひっそりと咲いている

ガラスでできたその薔薇の花束を抱きしめる「あなた」の
固く握りしめた掌の間から流れ落ちた
「脆弱」の血の色に
胸つぶれる悲哀を知るのだが

当然の如くに
わたしは成す術もなく
ひたすらに沈黙のなかに溺れるのみ

 くり返しくり返し、同じ事を語ることの意味は・・・実はわたしにもよく判りません。
 ただ己の愚かしさを確かめる為の行為なのでしょう。



12月26日(Sat)

 青酸カリのカプセル入り錠剤などと聞かされると、およそ「自死」以外には使い道がなさそうな、そのまがまがしい響きに人はつい過剰に反応してしまうのかも知れません。マスコミの空騒ぎは何時もながらの皮相な代物でしかあり得ないのだが、電子の海で密やかにやり取りされる「死」の様相については、何かしら胸騒ぎするものがあります。

 インターネットを利用して「自殺の為の道具」までもが電子化され、さらには通信販売でやり取りされる時代というのは、人の目にそうしたものが見えにくくなっている現代社会に向けての、いわば「死」の側からのアンチテーゼのような気がしています。だからこそ無惨な死体や奇形児たちのプロフィールが全裸のおんな達の性器と共に秘かに流布し続けるのでしょう。
 「死」はかくもエロティックであり無惨な様相を呈していて、人はその事に正視できない嫌悪を感じながら、しかし一方で、どうしようもなく惹かれるものも感じ続けているようです。それはまた、人間の裸と同じように「死」は自然なモノであることをもう一度みんなが思いだしはじめたからに違いありません。

 河原を埋め尽くすほどに人間の死体であふれかえったという応仁の乱の時代・・・人は「死」に倦むと同時に、生きることにもきっと辟易としていたのでしょう。
 わたし達もまた、この時代の空気のなかにまごう事なき死臭を嗅ぎながら、生き続けることの意味を見失って、ただ呆然と生きることに倦んでいるだけなのかも知れません。

 死ぬためのアイテムはなにも白いカプセルばかりという訳でもなさそうですが、ひたすら「死」ふりまくだけの道具とは、わたし達に恰好の動機を与えてくれるモノのようです。



12月27日(Sun)

 またぞろ「不明日記」書いてたんですが、どうにもまとまりがつかなくなってボツ。続くときは立て続けになりがちなのがまさに「不明日記」の不明さの正体なんですが、後で読み返して自分でも訳が判らなくなるところがなんともはや。そのあたりが「ポエム日記」との違いなのかもしれませんが、でも毎日「ポエム日記」書いてる人って、自分で読み返して恥ずかしくなることはないんでしょうか。読み返したりしたら「ポエム日記」なんて絶対に書けないよなぁ、やっぱり。

 自分でも訳の判らない愚かしい日記のせいで各方面にもいろいろと御迷惑をおかけしてるようだし、そのあたりの節操のなさが自分自身の首を絞めているという噂もちらほら囁かれている模様ですが、でもねぇ・・・面白くてやめられません。がはははh、
 ずるい日記、卑怯な日記、訳ワカラン日記・・・所詮は日記なんだからという言訳の元に書きたい放題出来るからこそ、僕みたいに飽きっぽい人間であってもなんとか続けることが出来ているんでしょう。まさに「インターネット万歳!」です。うん、いざとなれば通販で青酸カプセルも買えることだし。

 新聞報道によって伝えられる「21才・主婦」というプロフィルーのなんとウソくさいこと。そんな言葉でひとりの人間の存在を伝えようとするなんて、あまりにも傲慢、あまりにも無恥。まぁ、マスコミなんて所詮その程度の薄っぺらな理解を広めるためのメディアでしかないことを改めて証明しているだけなんでしょう。



12月28日(Mon)

 はい、本日もまたお出かけなんですが、最近奥さんの僕を見る目が冷たいのがちょっと気になります。
 冷たいというか・・・理解しがたい生き物を眺めるような、その空虚な目は是非止して頂きたい処です、奥さん。えぇ、心臓のあたりがなんとなくひんやりするから。
 いい歳して夜遊びにほうける亭主ってのは確かに情けない存在かも知れませんが、老先短い人生なんですからそこの処は大目に見ていただけると助かります。
 奥さんには、「はるか昔からずっと大目に見てました。」なんてあっさり言われそうです。がはははh、そんなお言葉にもお返事のしようがありません。家庭内ではなにかと弱みを握られている情けない父親であり続けるしかなさそうです。いずれにしてもやる気ないんだから。はい、帰りは何時になるかも最早尋ねられることはなくなりました。嬉しいと言えば嬉しいんですが・・・そのうち手ひどいしっぺ返しが来そうな予感に戦々恐々とすることもあったりします。

 手抜き日記にもいろいろとバリエーションを持たそうとするんですが、なかなかに難しいようです。考えるの面倒だから今日はこんな処でイイや。



12月29日(Thu)

 麻美の風邪は熱が39度近くまで上がって、今が絶好調という処でしょうか。まぁ、そんなに熱があるにしては元気なのは、日頃の軟弱な麻美にしては珍しいかも知れません。寝たり起きたり、ヨーグルト食べたり、たまには「気持わる〜い。」とか言ってフラフラしながらトイレを往復してます。麻美の風邪をうつしたのは先日からゴホンゴホンしているわが家の奥さんだと思うんですが、とうとう今日はダウンしてます。夕方から布団かぶってスヤスヤタイムのようです。
 姑息なオヤヂは日頃の後ろめたい己の行状がアタマの隅にあるものだから、こんな時はなんとかして得点稼いでおこうとこまめに働いてます。
 いたって元気なので部屋の片づけを正美にまかせて、夕食はなににしようかなと近くのスーパーまで買物に。うん、こんな時はやっぱりカレーでしょう。という訳でチキンカレーに決定。
 玉ねぎとニンニクをたっぷり、オリーブオイルで色が変るまで炒めて、フライパンで表面に焦げ目をつけた鶏もも肉を肉汁と共に鍋に入れて、後はジャガ芋と人参を放り込んでひたすら煮込むだけ。簡単でいいな。あと、コンソメスープの素入れるとおいしいよね。温かくなるようにとポタージュスープも作ったんですが、これは簡単にインスタントな奴。インスタントでも牛乳で溶くとコクが出るから結構いけます。

 で、奥さんはなんとか食べたんですが麻美の方は気持が悪いから食べたくないんだとか。せっかくの父親手づくりのカレーだってのに。
 なにが食べたいと訊くと「ポップコーン」だそうで、風邪に「ポップコーン」ってのもあまり聞いたことがないけど・・・まぁ、麻美が好きならしょうがない。ガスレンジの前でアルミフォイル製のフライパンに入ったポップコーンをシャカシャカ振ってるオヤヂもなかなか風情があります。<そんなものはネーよ。

 碌に寝ないで料理するのもなかなか辛い作業です。もっとも、寝ないでほっつき歩いてる人間が悪いんです。はい。奥さんなんとなく不機嫌な気がするが、不機嫌かどうかを訊くのもはばかるような雰囲気。<やっぱり不機嫌なようです。



12月30日(Wed)

 彼女がわたしを理解することが決してないのは興味がないからではなくて、それに触れることでいっそう自分には理解しがたいものを見ることを避けようとするからのようです。過去についてあまり訊くことがないのも、傷つくことを恐れるあまりというよりも、目に見えぬものの存在に思い惑うことの愚かしさを本能的に知っているせいでしょう。触れることで過去に立返る記憶のあることすら知ろうとしないのは、まさにわたしという人間の理解しがたいその狷介さと共に生活する上での知恵のようなものなのかも知れません。
 ただし、なにも思うことなく自らを生きていくと言っても、日々の暮しのなかで思うことはきっと多いのでしょう。日常のくり返しを彼女に求めても、わたし自身はそんな場所での己の不在がちの言訳をするでもなく、彼女の様子にも何事も気づかぬふりをしているばかり。
 至極当然なコトバにも答える事のできないわたしは、不機嫌を装うことで辛うじて「自己欺瞞」や「嘘」から逃れようとする姑息な人間のようです。その事に気づいていっそう不機嫌になるというのも彼女にとってはあんまりな仕打ちだと思いながら、自らを律することのできない人間はかくの如く愚かな振舞いに終始するしかないようです。

 袋小路の向こうに見えるものを、恐れているのか望んでいるのか・・・答はすでにそこにあると言うのに。



12月31日(Thu)

 なにも実感のないままの大晦日はいつもの事なんですが、とりわけ今年はそれがひどいかも。
 テレビも見る気がしなくて・・・ホントは朝からずっとテレビ見ているつもりだったんですが、どうにもそんな気になれないままでした。仕事もしないんだからMacに電源入れる必要もないだろうと思いながら、やっぱりモニターの前に座るとMac立ちあげてます。
 で、何時もの如くボンヤリと1日過してしまいました。1年を締めくくるにはまさに今年1年を象徴するような1日だったのかもしれません。どうしようもないなぁ・・・そもそもどうにかしようとあまり考えてないんですから始末に悪いんです。こんな調子で1年がうかうかと通り過ぎてしまったんですが、来年もきっと今年以上にボンヤリとした1年になるんでしょう。というか、人生もある程度以上浪費すると以後はほとんど「つけ足し」というようなものなのかも。つけ足しの人生に付き合わされる人達の事を考えるともう少しきちんとしなければと思いながら、結局今いる場所以外には何処にも行き場のないのが不満なのか安心なのか、そのあたりを曖昧なままに過してしまうところが僕のダメな処なんです。関係者には秘かにごめんなさいしておくしかないのかも。

 訳のワカラン文章で1年を締めくくるのも、まぁ訳のワカラン日記には相応しいのかも知れません。本人にもよく判ってないんですから、こんな文章読まされてもなにも判らないのは当然でしょう。要は寂しいだけだったりして。


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