メカ好き、あたらしもの好きというのは、これはもう完全に母方の血筋で、父親はそっち方面にはさっぱりで、炊飯器でご飯を炊くとか洗濯機で洗濯をするなどといったことは、まわりからしてが最初から諦めているという風だった。 母の長兄は織物工場で自動織機の修理やら調整などをやっていたし、次の兄などは若いころからオートバイを颯爽と乗り回し、それも数年に一度は新しいものに乗り換えるマニアだったし、祖母にしてからがなじみの電気店からは年に数回芝居や歌謡ショーの無料招待券が送られるほどの大得意で、電化製品が大好きだった。 テレビやステレオなどがまず最初にやってくるのはおばあちゃんの家であり、孫である僕にも当時出始めのテープレコーダやら35mmのカメラなどをぽんぽん買い与えるのだが、そのくせ大の写真嫌いでカメラに撮られることを極端に嫌い、電話が苦手で誰かにかける時はまわりの人間に代わりにダイヤルしてもらうという、いささか不思議な癖のある人だった。孫のうちで可愛がるのはなぜか僕一人で、他にも孫はいたのだがそちらにはいたって冷淡だったのは、当時の僕にはよく解らない大人の事情もあったようだが、性格的に極めて狷介だったことは間違いない。そのあたりの血筋も僕は確実に受け継いでいるようだ。 本好きな処は間違いなく父親から受け継いだと思うが、若いころの父親は何か行き詰るとひがな1日本を読みふけっては仕事にも出ず、呆然と過ごすことも多かったとか。 これもやはり血筋かも。 |
病院の医師からは出産は帝王切開でと言われていたので、日付と時間まであらかじめ知らされており、その日僕は朝早くから彼女の病室にいた。 11時前にはストレッチャーに乗せられてガラガラと引かれていく彼女を見送り、その後は当分することもないので手術室に通じる扉の前に座ってカメラとビデオ一式を抱えてずっと待っていた。事情を知らない医師からは不審者のように見られていたのだが、もうすっかり顔見知りになっていた看護師さん達からはよく声をかけられた。 12時過ぎ、自動ドアが開くと新生児用のストレッチャーが見えた。「女の子ですよ。」と目の前で立ち止まった看護師さんの声を聞きながら、僕はそれどころではなく、ビデオを抱えつつ何とか写真を撮ろうとしてあたふたしていた。少し手が震えているのを自覚する。ちゃんと写っているのかいささか不安なまま、子供達はすぐに沐浴のために廊下の奥の部屋に運ばれていくのをビデオを抱えて追おうとしたのだが、別の看護師さんからすぐに1階の受付窓口に行ってほしいと言われて、何でこんな時にと思いながら、仕方がないので1階に向かった。 何でも麻美(その時点では名前がないので夜久ベビー2となっていた)の体重が少し足りないので保育器に入れるので、そのためには麻美の小児科への入院手続きが必要なのだと。生まれて数十分でもすでに人間としての手続きがいるのかと納得しながらも、やはり何でそんなに急がされるのかいささか不審なまま、とりあえず手通きを終えた。 病室にはすでに彼女は戻っており、局部麻酔のため少しぼんやりとしているのだが意識はあった。病室に僕も子供もいない事に不安だったようで、回らぬ舌で子供たちのことを尋ねるので、二人ともに元気だと伝え、ビデオカメラのファインダーを覗かせるが、小さくてよく見えないと言う。 手足の感覚はまだ鈍いようで、シーツの下で握った彼女の手は小さくて冷たかったが、その感触に、僕達は家族になったのだと、ふいに強く実感した。 |
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