いやな気持ち そこへ行くと、とてもいやな気持ちになる場所というモノがある。何の変哲もないビルのトイレだったり、コンビニの週刊誌の並んだラックの前だったりする。"いやな気持ち"という以上に表現のしようのないその場所の雰囲気は・・・いってみれば、モルグ(死体安置所)のようなモノかもしれない。ステンレスの硬質な輝きに包まれたその部屋には、強い消毒臭の他に、確かに死の匂いが漂っている。何段にも重ねられた扉の向こうには、様々な死が横たわっている。別れ話のもつれから包丁でめった刺しされたOLの死体、駅のホームから飛び込んで、ちりとりで集められた女子校生の死体。夏の暑い盛りに2週間、布団の中にあった老婆の死体。そうした非現実を覆い隠すために作られたモルグの清潔な施設を持ってしても、その空間自体が放つ腐臭を完全に絶つことは出来ない。 それと同じように、明るい蛍光灯が無数に埋め込まれた天井の下で、うそ寒い予感に総毛立つような場所は確かに存在する。 私はなるべくそうした場所へは近づかないようにしてきた。近づくにつれ、いやな気持ちは理不尽な恐怖のように私の心をかき乱す。ほんの数分いただけで、私はびっしょり冷たい汗にまみれてしまう。まわりの人間が思わず声をかけるほど、そうした時の私の様子は異常だった。顔面蒼白で呼吸が浅く、そして早くなる。額に浮かんだ汗は冷たい感触で私の首筋を伝ってゆく。取り繕うことが困難なほどにそうした衝動が強まるとき、私は耐えきれずにその場所を離れる。逃げ出してしまうのだ。ある種の予知なのかもしれないが、その結果、何らかの啓示を受けたというようなこともなかった。ただひたすら私は恐怖していた。 そうした場所のひとつとして、私の家の洗面所がある。 安普請の分譲住宅に特別変わった設備が付くわけもなく、扉を開けると、左手に浴室の扉があって、それに向かい合う形で洗面台が設置されている。奥には小さな明かり取りの窓があり、洗濯機が置いてある。日本全国、どこにでもある洗面所であり、取り立てて異質な部分はまるでなかった。しかし、この私の"いやな気持ち"は日に日に強まるばかりだった。朝晩の洗面が苦痛になる。流しで顔を洗う私を見て怪訝な面もちで見つめる妻には不機嫌な調子で一喝する。まるで、牛のように愚鈍なおんなだ。 ある日、酔って遅くなった私は洗面所で深酒を嘔吐していた。酔いに麻痺した私の心が恐怖を忘れさせていたのだ。扉の開く音に振り返った私は、ゴルフクラブを振りかざして、まさに私の頭蓋骨を粉砕しようとしている妻の顔を見つける。 私は私自身の頭蓋骨が砕ける鈍い音を確かに聞いた。
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