ライプツィヒ バッハ アルヒーフ研究部門によるとBWV(バッハ作品目録)は今年4月に発見された「コラールファンタジー」を含め現在1128番まであると言う。(偽作と言われている作品を含めての数だが)これはバッハが如何に多作家であったかを如実に物語っている。そしてほんの数曲を除き、彼の作品は何らかの場所でそれなりの目的があって創り出された所謂「実用音楽」であった。例えば「教会カンタータ」「モテット」「受難曲」等は、当時のルター派教会での礼拝をはじめとする宗教的諸儀式の為のものでオルガン作品の大部分も同様であり、あまり知られていないが家庭内での祈祷(祈り)の為の作品もある。世俗曲と言われる幾つかの作品も領主や有力者の祝祭行事や葬儀用等、用途がはっきりしている。チェンバロ作品、管弦楽作品、協奏曲も然り。
さて、それでは「ミサ曲ロ短調」とはどういった場面での作品なのか。1856年に刊行された「旧バッハ全集」には「Messe in h-moll」のタイトルがはっきりと記されている。しかし約1世紀後の1955年に刊行された「新バッハ全集」には「Spater genannt」つまり「後にそう名付けられた」との注釈が付いており編集者のフリードリッヒ スメントはその校訂報告の中で「ミサ曲ロ短調」という作品は存在せず、後世そう呼ばれるようになった、と言う意味の事を記しているのだ。この報告を受け、バッハ研究者の間で賛否両論が入り混じり半世紀以上経過した現在でも議論は続いている。
作品の成立過程を一つ取っても大きく二つに分かれる。一つにはバッハが晩年ドレスデンへの就職を考えて既在した作品と新作をまとめカトリック ミサ通常文による曲を作り上げたと言う説。二つめはバッハが晩年になり宗教心が高揚し、宗派、つまりルター派、カルバン派、カトリック等と分かれていた当時のキリスト教会の垣根を越え、信仰告白した(今で言う教会一致運動のさきがけ)その象徴ともいえるのが「ミサ曲ロ短調」という説。
しかし両者の意見は今ひとつ説得力に欠けると思われる。一つ目に関して述べると、1748年にOsannaとAgnus Deiを書き足してカトリック ミサ通常文を成立させた事になるが、この頃はバッハ自身、体調を崩しておりドレスデンへの転職(宮廷楽長の地位)を現実的に考えていたとは理解しにくい。また一つ目の意見を裏付ける理由に当時ドレスデンで流行していた「ナポリ楽派」の影響を「ミサ曲ロ短調」結びつける研究者もいるが、「ナポリ楽派」の模倣はドレスデンに限らず広く中部ヨーロッパではやっていたので決定的理由にはならない。
二つめに関して述べると、まず当時の神学思想に矛盾する。バッハ存命中の中部ドイツ、今で言うチューリンゲン、ザクセン地方はルター正統主義が牙城であった。その思想を簡単にいうと「ルター派教会だけが神学的に正しく他の宗派、つまりカルバン派やカトリックは間違っている」と言うような「排他的」なものであった。今でこそナンセンス且つキリスト教の本質に反する考えであるが、他の教派も当時は似たり寄ったりだった。バッハがKyrieとGloriaを献呈したドレスデンのフリードリッヒ アウグスト二世が贈られたにもかかわらずこの曲を自ら聴いていなかったのは彼がカトリックだったから、との事は周知の事実である。それほど同じ神を拝むキリスト教でありながら教派によって区別、差別されていたのである。ケーテン期のバッハの信仰に関する苦労をご存知の方々も多いであろう。
こうした議論のなか一石を投じた書物が昨年刊行された。ベルリン国立図書館に所蔵されている「ミサ曲ロ短調」のファクシミリ版の解説である。著作者はハーバード大学教授でライプツィヒ バッハ アルヒーフの所長クリストフ ヴォルフ博士。彼は著作の中で次のように語っている。「この作品はバッハの『遺言』的要素がある」と。声楽曲の『遺言』が「ミサ曲ロ短調」であり、器楽曲の『遺言』が「フーガの技法」との事。本質を突いているとは私も思うが、勿論この考えもあくまで推察でしかない。ただ確実なのは今後研究が進み、全容が明らかになる日が来るかもしれないが、「ミサ曲ロ短調」がバッハの数ある作品のなかでも後世に伝え続けられる曲の一つである事は誰も認める事実である。
ライプツィヒ バッハ アルヒーフ広報室 高野昭夫