バッハ作品目録(BWV)の最新版をみるとバッハはその生涯に約1100以上の作品を残した。紛失された作品をも含めると現在の研究では併せて1300とも言われている。この数字からバッハがいかに多作家だったかと言う事がわかるであろう。そしてほんの数曲以外は彼の作品は何らかの場所で目的があって演奏された、所謂、実用音楽であった。例えば「教会カンタータ」「受難曲」「モテット」などは当時のルーテル教会での礼拝を始めとする諸儀式の為のものでオルガン作品の大部分も同様であり、余り知られてはいないが家庭内での祈祷(祈り)の為の作品もある。また、世俗曲と言われる作品も領主や権力者の祝祭行事やカフェーでのバックグラウンドミュージック等、用途がはっきりしている。
さて、それでは「ミサ曲ロ短調」とはどういった場面での作品なのか?
1856年に刊行された「旧バッハ全集」には「Messe in h-Moll」のタイトルがはっきりと記されている。
しかし約1世紀後の「新バッハ全集」には「Später genannt」つまり「後にそう名付けられた」と言う解釈がつき、編纂者のフリードリッヒ・スメントは校訂報告で「ミサ曲ロ短調」と言う作品は存在せず、後世そう呼ばれるようになった、と記した。
この研究報告を受けバッハ研究者の間で物議が交わされ60年近く経った現在でも議論は続いており、その答えは想像の域をまだ出ていない。
議論の中心は作品の成立過程。
一つめはバッハが晩年ドレスデンの宮廷に就職を願い既在した作品と新作をまとめカトリック教会用のミサ曲を創り上げたと言う説。
二つめはバッハ晩年に宗教心が高揚し宗派、つまりルター派、カトリック、カルバン派と分れていた当時のキリスト教会の垣根を越え(今で言う教会一致運動の先駆け)自分の信仰告白のため創られた作品がこの曲だ、と言う説。
大まかに分けると大体この意見のどちらかである。
しかし、この二つの説は今ひとつ説得力に欠ける。
一つめに関して述べると1748年にOsannaとAgnus Deiを書き足してミサ通常文を成立させたと言われているが、この頃はバッハ自身、体調を崩しておりドレスデンへの就職(宮廷楽長)を現実的に考えていたとは理解し難い。また、一つめの意見の理由に「ミサ曲ロ短調」にドレスデンで当時流行していたナポリ楽派の影響を指摘する学者もいるが、それはドレスデンのみならず中部ドイツ各地で模倣されていたので決定的な理由にはならない。そして、何よりドレスデンでのカトリックミサ通常文とバッハの作品には式次第に違いがあり、バッハのそれは実用するには無理があった。
二つめに関して述べると、当時の神学思想に矛盾する。バッハ存命時の中部ドイツ、今で言うザクセン、チューリンゲンはルター正統主義の中心地で、その考えは簡単に述べるとルター派だけが正しくカルバン派(改革派)、カトリックなど他の宗派は間違っている、と言う排他的なものだった。特にライプツィヒはその牙城で在った。今でこそ時代遅れ、かつナンセンス、そしてキリスト教の本質に反する考えであるが、当時は他派も似たり寄ったりであった。バッハがKyrieとGloriaをドレスデンのフリードリッヒ・アウグスト2世に献呈したが、彼自身はカトリック信者だったので贈られたこの曲を聴いていない。
それほど、同じ神を崇め拝むキリスト教でありながら、宗派によって区別、そして差別されていたのである。ケーテン期のバッハの信仰に関する苦労をご存知の方も多いだろう。
「ミサ曲ロ短調とは?」繰り返し述べるが、近年私の上司であるクリストフ・ヴォルフの解釈など新しい説がでているが、バッハ研究が進んだ今日でもはっきりした結論はまだ出ていない。
しかし物議を醸し出したスメントの言う「個別の作品が後世になって集められ、後にそう名付けられた」との考えは否定されて良いだろう。成立時期は確かに異なるが、GloriaのGratias agimus tibiとAgnus Deiの最終曲であり礼拝式文の中でも最も重要な部分であるDona nobis pacemは単にメロディーが共通と言う以外にも祈りと願いを神に捧げる、と言う意味で共通している。
そして何より抽象的な表現で恐縮だが一曲のミサとして全体を通してこの曲を聴くと一貫したフィロソフィーを私は感じる。
今後研究が進み全容が明らかになる日が来るかもしれないが「ミサ曲ロ短調」がバッハの数多くの作品の中でも優れた、そして後世に伝え続かれて行く曲の一つである事は誰も否定できないであろう。
バッハ・アルヒーフ・ライプツィヒ 国際広報官 高野昭夫