ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがカトリックの街ザルツブルクで生まれたのは、1756年。ヨハン・ゼバスチャン・バッハがいわゆるルター派正統主義の牙城だったライプツィヒで65歳の生涯を閉じた1750年から6年後のことである。
そのため、この二人の大作曲家が直接出会ったことはないばかりか、モーツァルトが生まれ故郷でバッハの音楽にふれた可能性は極めて低い。なぜなら、バッハは今でこそドイツから遠く離れた日本でも知らない人はいないほどだが、当時はその影響力はライプツィヒ周辺の中部ドイツを大きく出ることはなかったからだ。
バッハのミサ曲は(《ロ短調ミサ曲》を除いて)、キリエとグローリアのみからなる「ルター派ミサ」で、モーツァルト親子が務めたザルツブルク大聖堂での礼拝でそれが演奏されることもなかったはずだ。
とはいえ、メンデルスゾーンが1829年に《マタイ受難曲》を復活上演するまで、バッハの名が完全に忘れ去られていたとするのは早計である。というのも、それ以前にもバッハの音楽を熱狂的に愛していた「バッハ・カルト」とも呼べるような人々が、少ないながらもいたからだ。
その一人が、ウィーンの宮廷図書館長で音楽愛好家のヴァン・スヴィーテン男爵である。彼はバッハの音楽に傾倒し、さまざまなルーツで当時はまだあまり流通していなかったバッハ作品を熱心に収集した。
モーツァルトが男爵と知り合ったのは、ウィーンに移り住んで間もない1782年のこと。モーツァルト自身の言葉を借りれば、彼は「ヴァン・スヴィーテン邸で毎日曜日に催されるヘンデルとバッハしか演奏されない演奏会」に通っていた。
そこで鍵盤作品を中心に、さまざまなバッハの音楽を知ることができたことは、モーツァルトの晩年の作品を考える上では欠かせないできごとである。
さらなるバッハとの接点は1789年のことである。モーツァルトは、北方への旅行の途中、バッハがトーマス・カントルとして活躍した街ライプツィヒを初めて訪れた。
この街に足を運んだ音楽家が、聖トーマス教会に赴かないわけがない。モーツァルトはここで「老バッハが蘇ったかのようだ」とバッハの後継者にあたる当時のトーマス・カントル、ヨハン・フリードリヒ・ドーレスに言わしめたほど見事な即興演奏をオルガンで披露した。
そしてドーレスは、隣接するトーマス学校に案内し、モーツァルトのためにバッハの二重合唱モテット《新しい歌を
曰く…
高野 昭夫(ライプツィヒ・バッハ資料財団国際広報室長)