J.S.バッハがトーマス・カントルとして、1723年以降の後半生を過ごしたライプツィヒの主要教会は、ルター派でした。
そのため、バッハの時代の礼拝では歌はドイツ語で歌われるのが基本だったわけですが、大きな祝日の主要礼拝においては、ラテン語で(5部分からなる「ミサ通常文」ではなく)キリエ、グローリア、サンクトゥスのみが歌われていたのです。
なかでも、キリエとグローリアはセットとして捉えられていましたので、バッハもキリエとグローリアからなるミサ曲(しばしば「小ミサ曲」と呼ばれます)を4つ作曲しました。
はっきりとした作曲時期や、具体的な動機は、残念ながら明らかではありませんが、1730年代終わりから1740年頃に書かれたと考えられています。
他の3曲のミサと同様、本作もひとつの部分からなるキリエと5つの部分からなるグローリアで構成されています。
また、それぞれはそれまでにライプツィヒで作曲された4つのカンタータ(BWV.17、79、138、179)からの楽章をもとに、歌詞を変えた「パロディー」としてまとめられています。
音楽は、暖かい雰囲気に包まれた古風な書法のキリエに対し、グローリアはより新しい書法で書かれていることが注目されます。
合唱のほか、バスの独唱、ソプラノとアルトの二重唱、美しいオーボエのオブリガートを伴ったテノールのソロと、さまざまな編成で変化がもたらされます。
とくに最後の合唱による「アーメン」はその堂々とした響きが印象的です。
高野 昭夫(ライプツィヒ・バッハ資料財団国際広報室長)