バッハの音楽は美しく、深い優しさをたたえている。その世界への扉を開けば、きらきらと降り注ぐ木漏れ陽のごとく暖かで静かな世界が広がり、それは知るほどにいっそう深く広くなっていくものだから、多くの人が魅せられて虜になる。ヨハネ受難曲にはこのバッハの魅力がぎっしり詰まっている。バッハの作品の中でも最も優れた一つとされ、音楽史の宝と呼ぶにふさわしい曲である。
ご承知のように、ヨハネ受難曲は新約聖書のヨハネ福音書(第18章〜第19章)に記されたイエス・キリストの受難物語をテキストにしている。弟子の裏切りにあい、捕えられ、十字架上の死を遂げるまでの物語だ。受難曲の起りは、遠くキリスト教の古代にまで遡ることができ、マルティン・ルターによる宗教改革(1522年)の後もカトリック、プロテスタント双方で多くの作品が生まれた。バッハがこの曲を作曲した1720年代は、歌詞に福音書の言葉を使う伝統的な手法を用いず、受難物語を題材として新たに作られた台本に作曲するのが流行していた。(ブロッケス作「世の罪のために責め苦を負い、死にゆくイエス」が有名。)しかし、バッハはヨハネ福音書の言葉をそのまま歌詞として使った。物語の語り手役“福音史家”、そして“イエス・キリスト”“ペテロ”“ピラト”“ユダヤ人の群衆”“祭司達”等、受難物語の登場人物の歌詞がそれにあたる。そして、その福音書の言葉に呼応するように、個人や会衆の思い・祈り等が自由詩による「アリア」や「アリオーソ」、バッハ自ら歌詞を選んで構成したと見られる「コラール(会衆歌)」として挿入されている。福音書の言葉を伝えるだけでない多面的で深みのある作品であり、劇的な迫力、宗教的な感動、そして叙情ある美しさなどが有機的に結び合わされた傑作ということができるであろう。
冒頭は合唱曲で、これから起こる出来事を予感させ不安をかきたてるようなオーケストラと、高らかにそして決然と主への讃美を歌う合唱、という極めて印象的な幕開けだ。第2曲からは前述のようにヨハネ福音書の章句と、それに呼応するアリア・アリオーソ、コラールなどによって曲が織り成されていく。
曲は大きく2つの部分に分かれてはいるが(教会の礼拝で演奏される際にはこの間に説教が行われる。)、第22曲のコラールを中心に全体がほぼシンメトリカルな構成になっている。そのため、いくつかの同じ旋律が調性やリズムを変えてあちらこちらに顔を出す。また、ヨハネ福音書には他の福音書(ルカ、マタイ、マルコ)と比較して、十字架刑をめぐる“群衆の関わり”の記述が詳細であるという特徴がある。これは音楽的にも強調されており、特に曲の中心部では自制心を失った群衆(合唱)の恐ろしい叫びと福音史家の激烈な語り(レチタティーヴォ)、それに続くアリアなどが、より劇的な印象を残す。
ヨハネ受難曲のもう一つの特徴として、コラールの多いことが挙げられる。重く、時に激しくイエスの受難が繰り広げられる中にあって、コラールは優しく切ない美しさをもって歌われる。原曲はルターなどによって作られた聖歌がほとんどだが、バッハの手によって微妙な色合いを持って再生されている。
この長大な作品を、遥か300年〜250年前のバッハの時代に思いを馳せ、教会の会衆のひとりになったつもりでお聴きになるのも、おもしろいのではないだろうか。
ライブラリアン 錦戸絵麻