デーテーペーな1日

1996.10.1~15

日記関係の発言はこちらで。
10月1日(Thu)
 今日は久しぶりで、何時もの書店へちょろっと出かけてきました。いやね、よくあるでしょう。PTA活動の一環とか言って、子供達に世界の名作を読み聞かせましょう、なんて催し。しかし、あの世界名作全集とか20世紀の偉人伝みたいな本は、今時のガキにはまったく人気がない。僕自身、ああいった類の、子供の身の丈をむりやり鋳型にはめてしまうような「名作」になんの魅力も感じない人間なので、やはり考えることは変則的です。あまり大きな声で触れまわる訳にもいかないでしょうが、今回は視聴覚教室でカーテン締め切って「学校の怪談」大会だ!いえ〜〜〜〜ぃ!
 明かり消してローソク1本立てただけの教室で「毎日、夕方6時6分6秒になると、学校のグランドで足だけがぐるぐる走ってるそうです。」きゃー。てな具合ね。1年生思いっきり脅かして、オシッコちびらせようぜ〜。いえ〜〜〜ぃ!<いい歳して、何を喜んでるのか、このオヤヂは?

 そういう訳で、怪談のネタ本探しにちょっと本屋覗いてみると、まぁ、いろいろでてますね。本家「学校の怪談」以外にも、「トイレの花子さん」やら「学校でおきている恐い話し」やらなにやら、児童書のコーナーの平積みはすべて恐い話し関係で占領されていました。まぁなんでもイイや。子供達の学校用に少し背景説明変えて、短めの話しを何本か選んで用意することにしました。

 新刊のコーナーにスティーブン・キングのハードカバーが2冊並んでました。
 で、何故かここから書評日記。ただし中身読んでません。表紙見ただけの書評日記・・・気ぜわしい現代人にピッタリかも。<おいおい。

 「図書館警察」と「ランゴリアーズ」いずれも文芸春秋刊。う〜ん、中編小説2点のハードカバーが定価2800円は、いくらキングがブランド物だとしても高すぎるゾ。去年だったら間違いなくその場で買ってましたが、キングのファンタジーにはうんざりしている処なので、そのとばっちりで、まぁ、中編集ならおとなしく文庫化を待ちましょう。意外と早く文庫に入りそうな気がします。
 エスエフありホラーありの、いわゆるキングらしさをはじめて楽しむには最適かもしれません。しかし、入門篇なら同じく中編集の「恐怖の四季」を分冊した「ゴールデンボーイ」と「スタンドバイミー」が新潮文庫に入っているので、こちらの方がお薦め。結論としては、やっぱりこの2冊は読む必要なし。世の中にはもっとやるべき事がいっぱいあるデス。<う〜ん、本を読むなと説く書評もなかなかチャーミングかもしれません。

 最近なぜか、フナイくんと交換日記状態。なにやら大坂で楽しい一夜を過ごしたらしい二人のうち、はたしてどちらに嫉妬しているのやら・・・遠く離れていても、僕の心は変わりませんです、はい。


10月2日(Wed)
 はいはい、鈴木京香ちゃんは今でも好きですね。Wedでファンクラブ立ち上げるつもりだったのに、事務所のいい加減な社長とのやり取りに疲れて、ほとんどサジ投げてます。何だか映画に出ているみたいですが、たちひろし・松阪恵子と共演してるようでは大入り満員という訳にはいかないでしょう。トレンディドラマ(死語)には不向きな顔立ちなので、作品選びは難しいですね。例の岩井俊二監督あたりに撮ってもらう女優が、いま一番ナウい(死語)のでしょうが、京香ちゃんみたいなキャラクターあまり好きそうもないですネ、あの監督は。
 鈴木沙里奈(漢字怪しい)は、最近けっこう好きです。そうそう、奥さんの言うとおり下品なんですけど、大坂の女の子の可愛い面がとても素直に出ていると思うんですが・・・ちょっと関西人以外にはくどいかもしれません。
 ナイナイ出演中の雛形も好きです。テレ朝の下らない番組は見た事ありませんでした。常盤貴子もおっぱい大きいです。あの胸の谷間で悶えてみたいですぅ〜。しかし、「りょう」てのは誰ですか?よく知らないです。
 あとは、やっぱり相川七瀬かなぁ。そういえば、もうひとり、あの安室奈美恵の顔って、一度ヘンだなぁと思ったら、ずーっとその"ヘン"を引きずってしまいませんか?何だか、カメレオンがしわ伸ばししたみたいな顔・・・う〜ん、とにかく何だかヘン。
 以上、最近のデーテーペーのお気に入りの「女の子」について、でした。全編私信。申し訳ない。

 しかし、頼まれてもいないのに人の日記に勝手に相槌うってる姿って、けっこう孤独かも・・・がはははh、とよいずみさん、ご無沙汰してます。ぜひ今度、壊れかけてる、例の「闘うプログラマ」と一緒に遊びましょう。<しかし、メールでやれよな、こんな事は。


10月3日(Thu)
 しかし、アーバンエコロジーの今回の逮捕騒動には、本当にイヤな気分が・・・何より無関心な人が多そうな処が、一層やりきれないです。エッチサイトの摘発と甘く見ていると、取り返しのつかない事態になりそうな気配が濃厚です。
 自主規制のお好きな国民性とメダカ思想によって、今後どの様な発言が問題視されるのか、まったく不明瞭なところがとても気がかりです。
 ロボットによるHomePageの洗い出しと密告による逮捕。業界への要望と言った曖昧な官僚の作文のままでの、実質的な国家検閲。
 いまの放送法が窒息死させたテレビジャーナリズムの再現が、インターネットの世界にもふりかかってくるような気がするのは、はたして僕の杞憂なのでしょうか。許認可権に一喜一憂するテレビ局が政府の意向に唯々諾々としたがうのは当然であり、さらにはスポンサーと言う名のタブーを抱えたテレビジャーナリズムが死に絶えてしまっているのは、もはや誰の目にも明らかでしょう。
 少なくとも、Webの世界では自らの発言内容の正否は、自らの理性によってのみ判断すべきであり、古色蒼然としたタブーや自主検閲のような愚かしい事勿れ主義で自分自身の首を絞めることはなんとしても避けたいと考えています。
 自由に付随するさまざまなリスクをも受け入れてはじめて、カッコ付きではない自由が実現できるのでしょう。相当な決意が必要な気がしますが、他者の自由を否定して成立する自由はあり得ないと言うのが、僕にとっての自明の結論でもあるのです。

 しかし、この国の権力は、膨大で複雑きわまりないインターネットの世界に、法の網をもれなくかけることが出来ると本当に考えているのでしょうか?いかにも権力を持った人間が考えそうな愚かな思想ですが、愚かだからと言って、甘く見ていては足元を掬われるのもまた、迫り来る現実の一面なのかもしれません。いまから「NO!」と言える心構えだけはしておきたいと、秘かに決意しています。

 赤尾さんのページからリンクされているこの緊急シンポジウムには、普段なにもこれと言った活動をしていないだけに、ぜひ出席したいと思っていたのですが、どうも行けそうもない気配が濃厚です。う〜ん、仕事が・・・まぁ、これからが活動の本番だと思うので、気長にやることにします。赤尾さんにもお会いしたかったのですが。


10月4日(Fri)
 仕事が忙しいと言いながら、明日はお出かけの予定があるとはこれ如何に?・・・まぁいいや。奥さんの冷たい視線に送られて明日はお出かけです。
 がはははh、なにやら明日は東京駅の新幹線ホームで不穏な動きが有るのかもしれません。オウム騒動の頃なら間違いなく、連行されるところでしょうが、さて明日の首尾はどうなりますやら。僕はそんな危険なオヤヂからは少し離れているつもりです。

 今日は日記書きましょう、日記。

 で、本日は子供達の通う小学校の給食試食会に出かけました。メニューはカレースープにナン(インド料理店ででる、ふやけたささかまぼこみたいなカタチした例のパンですね)、温野菜のサラダに牛乳と言う献立でした。子供達の学校は給食センターによる一括方式と言うことで、最近の食中毒の関係からか、その給食センターから係員がやってきてウダウダと説明を始めるのだが、この人達は基本的においしいものを食べさせようと言う気がまるで無いようです。配膳すべて終わった上で、O-157騒動での自分たちの大変さをくどくどしく説明したり質問うけたりで、その間にカレースープはすっかり冷めてしまっている。温かいものを温かいうちに食べるのが、まず食事の基本だと思うのだが、そういう事にまったく考慮しているそぶりすらない。食べながらとか、食事のあとに質疑応答を設けるとかの考えはまったくないようです。
 たぶん子供達の食べる給食もこんな具合で、冷めたスープに慣らされているのでは・・・せっかくの学校給食なのだから、カロリーや食中毒の事ばかり気にする前に、もうすこし食事の楽しさを味わえるようにして頂けないものでしょうか。センター一括方式と言う効率優先の考えは、僕にあの真っ暗な飼育棟で一生ケージからでることのない鶏の姿を連想させると言えば、やはり妄想が過ぎるのでしょうか。

 しかし、毎日が風のように通り過ぎていきます。最近は特に、その風に吹かれてふらふらと出歩くことも、また多いようです。僕がこんなに人間好きだったとは、自分でも意外。ただし、その好みにはかなり偏りがありそうです。したがって、僕が友人などと呼ぶ人達は、喜んでいいのか悲しむべき事態なのか、もう一度じっくり考えてみる必要があるかもしれません。


10月5日(Sat)
 本日の日記は短めです。昨日書いたとおり、ヒマ人の集まりに出かけてしまうので昼間から日記を書いております。まぁ、ひどいときは日付が変わったとたんに本日の日記を書いていた事もあったぐらいですから、まだまだ可愛いものです。

 で、今日の新聞の訃報欄には、映画監督の小林正樹の名前がありました。まぁ、まだ生きていたのかというのが正直な感想ですが、この監督の映画には、なぜかいつまでも印象に残るシーンがあります。壮絶な竹光による切腹シーンは子供心にも「痛いそーだなぁ」とげんなりするモノがあったし、「人間の条件」で言えば、加藤剛が上級兵のいじめにあって、兵舎の便つぼの中を掃除させられる場面をいまでも覚えてます。う〜、あれはイヤだったなぁ。モノクロの画面からもなにやら匂ってきそうで・・・
 しかし、文壇や映画界の年寄りがどんどん死んでますが、埴谷雄高はいつまでも死にませんね。<こらこら。もう90歳近いはずで、自らの死期を悟って無理矢理に「死霊」を完結させる筈が、まだ生きてコツコツと書き続けているのでしょうか?もうほとんど仙人の域に達しているような気がします。このままずるずる生きのびて、100歳になっても「ぷふい」とか「あっは」とか言ってるボケ老人って、やはり、そこはかとなく羨ましかったりするのかもしれません。

 本日は、ばっさりと戦後文学を切り捨ててみました。<どこが!
 がはははh、まぁ、どうせ無理矢理の日記ネタなんですからそんなに固いこと言わないで。しかし、たまにはかっこいい横文字の音楽ネタでも書いてみたいものです。


10月6日(Sun)
 しかし、更新が遅れてしまいました。すべては鬼畜なOL及び自己破産的サラリーマンに襲撃されたわが家のドタバタ騒動の結果です。とほほ。(C)●●●●<もうえ〜っうに。
 その上、仕事があるのに食事のあとにテレビぼんやり見てたりして、さらに泥沼に一歩踏み込んでしまった予感が。

 で、

 何故かいつも唐突に始まってしまう、ビンボーくさい映画時評の始まり始まり。

 映画館にも行かないし、レンタルビデを借りるような面倒事も更々やる気のない怠惰な人間が、たまたまテレビで見た映画についてぼんやり語るという、おきらく映画時評ですネ。なお、うんちくは有りません。

 最近で言えばO-157やエイズ、さらには細菌兵器の噂も流れているエボラ出血熱など、現代は流行性の病が蔓延し、まるで中世のペストの大流行を予感させるような世紀末的な気配が濃厚です。まぁ、文字どおり世紀末な訳ですが。
 映画の中身自体は無理矢理のサスペンスとお気楽な結末でアメリカバンザイを歌い上げる、例によって例のごとき「アメリカ映画」ですね。内容の空疎さは脚本のまずさであり、映画自体のつまらなさは別にどうという事もない訳ですが、お気楽と自分で言うように、また余計なところが気になります。お話しとしては、新種の伝染病に侵されたアメリカの町を、蔓延を防ぐためにメガトン級の通常爆弾で町ごと蒸発させてしまうという乱暴な映画で、国防会議や大統領がアッサリその事を結論してしまうのに、妙なリアリティを感じたりもします。しかし、映画の冒頭で同じ病に於かされたアフリカの村を、これはあっさりと蒸発させてしまう場面が、ただの後半のサスペンスの為のイントロになっていることに、本当にうんざりします。それも、よその国で戦争する事の好きな「アメリカ合衆国」の都合だけで殺されるアフリカ人達はほとんど背景の小道具同然の扱い。アフリカでの行為はただの悪徳将軍ひとりの責にして、一転して災厄が自国に及ぶと「アメリカ市民を救え」と声高々に歌い上げる映画に、呆れる以上にゾッとするモノを感じたりします。この伝染病が日本の町で発生したりしていたら、主人公のダスティン・ホフマンはきっと爆撃による完全蒸発に賛成していたのでしょう。

 明け方まで、訳の分からないテンションの持続する元OLのスタミナにはほとほと感心しました。小さい頃から魚沼産コシヒカリ喰ってる人間のパワーでしょうか?僕はいささか体調不良です。物好きとヒマ人の集まりには、それ相応の覚悟が必要なのでしょう。


10月7日(Mon)
 もはや事件から8年が過ぎ、34歳と言う彼の年令にある痛ましさを感じるのは、いささか不謹慎にすぎる感想なのかもしれません。しかし、犠牲になった幼児と共に「宮崎勤」もまた、なにやら現代の悲劇に飲み込まれた存在に思えてならないのです。
 ゾンビやチェーンソーを持った殺人鬼の徘徊する夜よりも、我が子の死の方が、子供を持つ親にとってはるかに恐ろしい「ホラー」なのだと断言したスティーブン・キングに、子を持つ親として私も同意できます。彼によって無惨に殺された幼児を自分自身の子供の姿に重ねてみれば、なによりその恐怖と怒りは実感できます。しかし、敢えてその先に横たわる私自身の妄想に触れてみるとき、「宮崎勤」を我が子として持ってしまった親の絶望や悔悟、さらには「宮崎勤」本人についても、また思うことがあるのです。
 この世に魂が存在するならば、犠牲者のそれは神によって癒され救われるのでしょう。忘れ去るのではなく、癒しの為に消えていく記憶の存在によって、人間は耐えていけるのです。だが、「宮崎勤」の狂気は塀の裡でますますそのぬかるみの深さを増し、果てしのない無明の世界をさまよい続けているようです。そこには、決して癒されることのない底知れぬほどの絶望と孤独に打ちひしがれた魂が、声もなく絶叫している。
 精神科医の下す愚かな診断や、検察官・弁護人双方の空疎な法律論の世界には、もはや「宮崎勤」の姿は存在せず、ただ理解不能な狂人が身じろぎもせずに座り、凍り付いた法廷の風景がマスコミを通じて流れてくる。
 彼を裁く者は、心理学や国家による復讐劇たる法廷などではないのです。オカルトや連続殺人鬼についての猟奇まみれの風説ではなく、ひょっとすると私達がなり得たかもしれない、それぞれの裡なる「宮崎勤」を裁く者は、やはり私達自身なのでしょう。
 私には彼もまた、「宮崎勤」自身の犠牲者のように思えて仕方がないのです。夏草の生い茂るだけの、かつての彼の生家の跡に、傷つきバラバラになった本当の「宮崎勤」の亡骸が埋まっているのかもしれません。離散した家族と自殺した彼の父親・・・犠牲者の連鎖は何重にも錯綜し、いつまでも血を流し続けている。
 幼い犠牲者の痛ましさと、事件の猟奇性のみに目を向けることは、結局、事の本質を見誤るのでしょう。しかし、今の私に語るべき結論のないこともまた、紛れもない事実ではあります。

 彼が一時務めていた印刷会社に、僕自身入社していたことがありました。僕がやめて数年してから入ってきたようで、勿論面識はありませんが、彼の務めていた製版部門と、僕が仕事をしていたデザイン部門は日々顔を合わせながら仕事をする関係にあり、入社時期が重なっていれば一緒に仕事をしていたはずです。まぁ、面識があったとしても僕とはまったく無縁だったはずで、その事になんの意味もないのでしょう。しかし、直接彼と会っていれば、また違った妄想にとらわれているのかもしれません。


10月8日(Tue)
 以前にも書いたことがあると思いますが、僕は成人してからいままで、一度も選挙に出かけたことがありません。どうやって投票するのかもニュースで見ただけで、具体的にはまったく知りません。
 20代の時分は、ただただ怠惰な生活を送っていたので、そんな事を考えたこともなかっただけですが、最近は政治と政治家のあまりのくだらなさに、まったく投票する気にもなりません。
 最も、ここまで棄権しているんだから、ぜひ死ぬまで投票なんてするものか、なんて「ギネスに挑戦」な気分もちらほらと・・・

 という訳で、選挙棄権記録に挑戦中の僕の政治論。

 いったい全体、「消費税」って何だったんでしょう?成立のドタバタ騒動とそれによる社会党の無意味な大躍進(勿論その後のどたばたと凋落も含めて)・・・今回の5%の消費税アップも、誰が賛成で誰が反対しているのか、僕にはまるで分かりません。そもそも、政党の名前にしてからが、民主と自由と社会の順列組み合わせ見たいなアホらしさで、日本人であることの恥ずかしさはここ何十年、僕の脳裏から離れません。まぁ、この程度の政党しか持ち得ない、この程度の国民であることは間違いありません。選挙のためのテクニックでしかない政策論争の不毛さと、頭の悪い政治家の作った作文が合体すると、最早事態は収拾がつかない程のていたらく。
 どうせ、当選すればすべての公約は「反古」にして恥じることのない彼らの生き様を肯定してしまう、僕たち自身の愚かしさが根本的な原因なのかもしれません。何のための消費税で何のための利率アップなのか?根本的な問いかけの無いままに、数字を人質にした下らない政策論争で、やれ3%に据え置きだの、5%で固定だの、段階的解消だのと、まるで根拠のない言説に終始しているのを見る限り、僕の連続棄権記録の更新は間違いないところでしょう。まぁ、何があっても投票なんかするつもりなんか、元々ありませんけどネ。

 何だかうっとおしい雨です。政治の話しなんか書くから、余計に気分が沈んでしまうのかもしれません。もうやめやめ。そういえば、ようやく野球シーズンが終わりそうです。実にホッとします。後は日本シリーズさえ我慢すれば当分の間はあのうるさいスポーツともお別れできます。野球好きな方、ご愁傷様。


10月9日(Wed)
 最近は何だかウダウダと文句付けたり、深く迷走するような日記ばかり書いてるような気がします。もう少し楽しい話題で日記書ければいいんですが、宮崎勤や政治の話しでは、どうしても明るく楽しい内容になるわけがないですネ。おバカ系のオヤヂ日記のネタとしては何がいいんでしょ。そろそろ不明な、"あの"ハーレクイン・ロマンスが登場するのでしょうか?
 そうそう、一時名付け親募集していたわが家のザリ彦、あんなにたくさんいた子供がみんな死んでしまいました。死んだ子供は、親がなんの躊躇もなくぱくぱく食べてしまうし・・・ザリガニ界のギリシャ悲劇にそっと涙するわが家の家族でありました。あ〜、またもや話題が暗い方面に。
 こうしたネタ枯渇時には、書評とか、雑誌からのテレビネタのパクリ日記なんかが羨ましいです。何も悩むことがない・・・いかんいかん、ついついBOWDOになってしまいました。日記の話題は、別室でと言うのが最近のポリシーです。
 う〜ん、何だか本日は「小ネタ集」なんでしょうか?多分そうなんでしょう。
 で、まず小ネタその1。 なんでこんなにご対面番組ばっかりやるんでしょ?柳の下にドジョウはいてもいなくても、みみずでもゴムひもでも、とにかく釣れた事にして始めるのが"テレビ流"なんでしょうね。何だか日本人はみんな生き別れとバツイチみたいな気分。
 小ネタその2。 あのねぇ、こんな内職みたいな仕事してる人に「事業所・企業統計調査票」なんてもの渡しても、主に製造し出荷していると、主に製造し小売しているの区別がよくわかんないんだってばぁ〜。

 もう飽きてきたから本日はヤメ。

 学校の長テーブルに猿のようにぶら下がり、バランス崩して一緒に倒れて右手はさんだのは、麻美の方です。火傷とか怪我とかで医者にお世話になるのはだいたい麻美のほう。基本的におっちょこちょいなんです。幸い骨に異常は無いようですが、痛みにめっぽう弱い彼女は、メソメソしながら左手でご飯食べてますが、暫くは母親にべったり甘えるんでしょうね。


10月10日(Thu)
 東京オリンピックの開会式が行われたのが、1964年の10月10日の事だった。その日を記念して今日が「体育の日」として国民の祝日と定められたわけだが、そこから僕が連想する「ふたつの日付」があります。ひとつは同じく1964年10月21日。もうひとつがそれから4年後の1968年1月9日です。
 10月21日の代々木の国立競技場・・・そこには一人の男が喘ぎながら懸命に走っていた。4年後、まだ正月気分の残る1月9日には、同じ男が自らの頚動脈をかき切って血まみれで死んでいる。

 そう、絶えようもなく哀切な記憶の中で孤独に死んでいった長距離ランナー「円谷幸吉」のことです。

 日本人の血の中に潜む狂気を連想させる彼の遺書が、まず僕の記憶の奥深くにいつもある種の違和感の様に残っています。

父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。

干し柿、モチも美味しゅうございました。

俊雄兄、姉上様、お寿司美味しゅうございました。

克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 以下、延々とこの正月に帰った田舎での肉親への礼が続き、最後に両親への謝罪で終わるこの異様な遺書のもつ、哀切さと狂気の匂い。うわごとのような「美味しゅうございました」のくり返しと、表面的には冷静な印象を与えながら、実は徹底的に他者と交わることを拒否している文章は、追いつめられ、やがて自らの肉体にたいする憎しみに変わった孤独な魂のあげる絶望的な叫びのように僕には思えるのです。
 「日本」を象徴するような地方の大家族の中で育ち、さらには自衛隊というやはり家父長的集団で自己を見つめ続けてきた「円谷幸吉」にとっては、肉親に宛てた遺書は日本人そのものへ宛てた遺書でもあったのでしょう。絶望と反発を決して他者に向けることなく、自らの裡へ裡へと深く沈んでゆく彼の魂のありようがとても痛ましいのです。
 4年ごとにくり返されるオリンピックの年の正月を自分の家族の住む田舎で祝い、一人で東京の自衛隊宿舎へ帰ったのが1月5日。誰の記憶もない数日の後・・・追いつめられ閉塞していく周囲の重圧に絶えきれなくなった彼が手にしたカミソリは、自分自身はもとより、日本の「家族」の持つ残酷な優しさへ向けて振り下ろされたのかもしれません。

 夭折した人間が備えていた「思い」は、徐々に変質しながら確実に生き残った人間の心に受け継がれていくのでしょう。言葉少ない人の「思い」は、それ故にいろいろな人間の裡でかたちを変えながら伝わっていくのかもしれません。語り得ない「思い」を語ること・・・それが妄想であることを承知の上で、なおも僕はそんな作業をくり返すのかもしれません。


10月11日(Fri)
 本日は地域限定情報・・・それもきわめて些末です。
 同じ東京都と言いながら、23区の西にある多摩地区なんて、どう考えても東京と名乗るのはおこがましいほど。古くからの地元の老人など、なにやら不明な「なまり」が確かにあります。スッゲ〜田舎臭い訳です。その多摩地区の中でもさらに交通不便なわが家の近辺のお話しですので、これはもう、極少数者向け地域不明日記ですね。
 そんなわが家の最寄り駅といえば、西武拝島線(いちいち説明するのもうんざりするほどの私鉄ローカル線)の玉川上水駅です。あの太宰治の情死で一躍有名になった玉川上水ですが、彼が愛人と入水したのはもっと東京よりの国分寺近辺のようです。その玉川上水も、現在では事故を恐れる役人の手によって流域すべて金網で覆われて、水辺に近寄ることさえできません。子供には絶好の遊び場の筈なんですが・・・
 こうして街からは次々と「危険」が排除され、無人の児童公園ばかり増え続ける事になります。肝心の子供達は自宅でファミコンに熱中するか、塾がよいでなにかと忙しい。
 駅の西側の通りでは貧乏くさい地方モノレール線の工事が現在進行中で、数年前から駅舎とロータリーはきれいに整備されています。ロータリーに隣接して公団の高層団地が何棟もならび、まぁ典型的な地方のベットタウンの小駅の風景です。ただひとつ・・・その公団住宅と通りを隔てた駅前に、広大な墓地が広がっているのがとてつもなく異様です。立正佼正会の専用霊園のようで、数千坪の敷地にびっしりと墓石が。この駅の成り立ちはぜんぜん分かりませんが、たぶん当初はこの霊園の参拝者の為の駅で、何もない荒涼とした場所だったのでしょう。しかしベットタウンが徐々に郊外に広がり続けた結果、高層団地が並立する「駅前霊園」が出来上がってしまったようです。お墓詣りにはやっぱり便利なのかな?
 だだっ広い墓地に並んだ墓石と見比べてみると、高層団地の四角いフォルムが巨大な墓石に見えてしまう事に住民達ははたして気づいているのでしょうか?

 なにかと交通の便の悪いところで、車が必需品なのはこれも地方都市の証明でしょう。更に、北側には、トラスト運動などで有名な狭山丘陵が広がっています。そのあたりの風景は、もはや誰が見ても東京都民が住む場所とは思えません。埼玉県民でもちょっと怪しいかも?


10月12日(Sat)
 本日の日記の更新も、例によって昼間なんですが・・・はい、そのとおり。今週もお出かけです。

 で、本日も日記じゃない日記を書くハメに。

 いつか書こうと思いながら、先に書かれてしまいました。それが、別冊宝島281号[隣のサイコさん] 「大江光あるいは『フォレスト・ガンプ』症候群の猖獗・聖なる白痴の零落/呉 智英」なんですね。
 もうほとんど表題ですべてが語り尽くされています。いわゆる"絶対的正義"によるお題目となにやら不明なセンチメンタリズムでマスコミにとり上げられることの多い、あのノーベル賞作家の息子のことです。
 美談仕立ての空疎なヒューマニズムで祭り上げられた「大江"七"光」の物語は、結局彼の父親が著名な作家で、事ある度に彼の小説の題材にしてきたが故にマスコミで大きく取り上げられた、いわゆる大江健三郎へのチョーチン記事ではないのか?と言う疑問です。その興味の中心たるや、結局は計算のできる牛や昔話をしゃべるオウムと同列の、陳腐な見せ物としての話題にしか過ぎない気がしてならないのです。
 思いがけない障害と同時に、特異な才能を持ち合わせた我が子に、何かしら運命的なモノを感じるてしまうのは、親として当然だとも言えます。その才能を生かそうとする事、何らかのカタチで社会参加させようとして手助けする親の思い。しかし、その事で救われるのは大江健三郎だけであり、同じ障害児でありながらそのような才能を持たない子供を持った親にとっては、二重の意味で差別され絶望を味わうだけの事ではないのでしょうか?ノーベル賞作家の息子だから・・・それに比べて我が子は・・・
 きわめて個人的な出来事であり、なんら社会性のない閉じた世界のお話しを、あたかも障害児の可能性の証明のようにはしゃぐことは、やはり無神経な野次馬の感想にしか過ぎないのでしょう。
 風通しの悪いアパートの一室で、世の中から孤立してひっそりと生きるだけの「白痴」や「障害者」にとっては、あたかも火星での出来事のようにはるかに遠い世界のお話しでしかない事が、僕には気がかりなだけです。

 ATOKの変換辞書には、デフォルトではなぜか「白痴」の文字はないようです。「気違い」も変換できませんね。無意味な漢字変換をやたらに強調するわりには、妙な分野の語彙にはまったく弱いようです。なにやらインターネットの世界にもさまざまな規制の網が掛けられようとしてるようです。盗聴法案などと言った馬鹿げた法律が真剣に議論されている状況は、やはり不気味です。こうした現実に対処するためには、きちんとしたカタチで異を唱える必要があるのでしょう。


10月13日(Sun)
 何故か訳もなく夕方から寝てました。
 うつらうつらとしながら、夢だか妄想だか得体の知れないモノになかば捉えらたままのそんな半覚半睡のなかで、「あぁ、これは日記のネタになるなぁ。がはははh、おもしろい。」と、ぼんやりとつぶやいているいる自分自身を意識していたのですが、はて?目が覚めてみるとまるで何一つ覚えていません。う〜ん、絶対に面白い日記ネタだったのに・・・しかし、夢にまで日記ネタを見るなんて、ちょっと危ない兆候かもしれません。やはり僕が登録するのは日記猿人ではなくて、やっぱり日記廃人?

 今ちょうどF1日本グランプリの放送が始まってしまいました。なんだか「でーてーぺーのこのごろ」みたいでヤナ感じなんですけど、テレビネタって訳じゃないからいいでしょう。
 そうなんです、F1レースもけっこう好きなんです。限られたシート巡ってのストーブリーグ中の暗闘とか、スポンサーがらみのごたごたなんてインサイドストーリがとくに面白い。しかし、あの「バブル絶頂期」にカモられたジャパンマネーはどのぐらいあったんでしょう。おめでたい日本人が辛辣で食えないヨーロッパの半ば紳士半ば詐欺師みたいな連中によってたかって徹底的にむしられて、最後に捨てられる様子って、まるでヨーロッパの金髪のコールガール買うために大金払う日本紳士そのもの。中島悟もなんだかF1チーム買収するようだけど、ティレルおじさんも食えないタヌキおやじみたいだから、結局金だけむしられて終わりみたいな気がします。まぁ、中島悟だって自分の金使う訳じゃないだろうから、結局だまされるスポンサーが馬鹿だと言うことなんでしょう。

 やっぱり日記界の「勝新」は間違っていなかったようです。自画像は似てるゾ。けっこうかわいい人みたい。フナイくん、うふ�。がはははh、意外とこざっぱりした若者なんでちょっと期待はずれ。しかし、下品な笑い声が紛れもない関西人の「空気」を辺りにふりまいておりました。


10月14日(Mon)
朝に見る夢

 一人ソファーで眠る彼女の横顔をそっと盗み見た。何かしらとりとめのない衝動のようなモノに捉えられたままの俺は、このまま夜が明けるまでこうして彼女を見ているのかもしれない。初対面の男女が、一室で夜を空かすために深夜のオフィス街を歩いているときから、俺は強く彼女に惹かれていた。徐々に明けようとする空を眺めながら固く勃起している自分自身に戸惑い、その事でもう一度彼女への気持の傾倒を確かめるのは、こういう事態に不慣れな俺らしいと、ふと自嘲したいような気分。
 ここ何ヶ月かの不可思議な衝動は、すべてこの出会いのために用意されていたのかと思いたいが、そうした俺自身の妄想を深めることを少しばかり恐れているもう一人の俺がいた。何事につけ臆病な俺は、長い間、じっと自分の巣穴に閉じこもり、外界からの刺激に触れることを拒否し続けてきた。いつしかそれが生来の習い性となり、妄想のうちで愛撫する不定形の「おんな」のイメージにのみ欲情し、何度も自慰をくりかえしていた。
 しかし、現実に俺の前に現れた彼女は、まるで俺の妄想の主とは違っていた。明るく笑う彼女の笑顔に切り取られたちっぽけな俺の自我が、胸の裡でずっと俺に囁いていた。やがて夜が明ければ、この不思議な一夜をくり返し思い出す俺がいるに違いない。こうして一歩を踏み出した俺の妄想が、現実と共鳴するか軋轢とともにすり切れるのか?その事で思い迷う事はもうヤメにして、俺は俺自身の妄想に執着することにした。
 気怠い朝の予感とともに、なにかが確実に変わってしまったことを、俺ははっきりと意識していた。目覚めつつ見る夢・・・それを求めているのか恐れているのか?今の俺に、答えはない。

 さて、本日の不明日記は、特別に不明度が高いかもしれません。特別限定増刊号・又は憑依する日記と言うヤツです。何を物好きな、と我ながら思いつつ、しかしやってしまうところが症状がかなり進んでいる証拠。申し訳ない。明日こそ、もっと面白いネタで日記書きますから本日は目をつぶってやって下さい。


10月15日(Tue)
 いわゆる絶不調ってヤツ?・・・明け方、ベッドの中で急に寒気がして目が覚めてしまい、熱が出始めていることを自覚する。何度か寝返りを打っているうちにますます熱が上がっているようで、頭の芯でズキンズキンと脈動するモノに包まれながら、それでももう一度眠りに落ちる。
 浅い眠りから覚めたとき、枕元のテレビのボリュームを下げたいのだが、そこまで手を伸ばすことがとてつもない厄介事に思えて、痛む頭を抱えてもう一度布団の中で丸くなる。熱がでたのはずいぶん久しぶりかもしれない。悪寒と頭痛にすっぽりと包まれた耳元で、子供達が登校する声をぼんやりと聞いていた。

 「あぁ、昼までに仕上げる仕事があったよなぁ・・・」

 確かに、頭の片隅でそうつぶやく声を聞きながらどうしても起きあがることが出来ません。
 熱にうなされながらぼんやりと日中にうつらうつらすることは意外と魅力的な時間の過ごし方に思えてくることもあります。子供の頃、よくこんな日がありました。布団の中で天井をぼんやりと眺め、流しで母がなにかコトコトとつくる物音を聞きながら、気怠い午後の気配に全身を浸して、妙に白茶けて見える外の景色を眺めていたことを思い出します。
 しかし、最早子供ではあり得ない僕は、午後からのろのろと起き出して、仕方がないので仕事を始める事になります。もちろん、こうして日記も更新している訳です。

 日中は本当に辛かったのですが、夜になって少し楽になりました。オヤヂはやたら元気な筈なんですが、昨夜、夜中にアイスコーヒーなんか飲んだのが悪かったのかもしれません。いつまでも夜中に日記巡りなんかしてるから、こんなていたらく・・・しかし、日記者には元気な人が多い。皆さんほどほどにして早く寝ましょう。


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