デーテーペーな1日

6月15日(Sat)
 また今日も自閉する恐れがあります。高層マンションに魅せられている方、及び遮断機の警報音が耳に残っている方はご注意下さい。きょう一日が何事もなく平和であった方、私の日記があなたの心を乱すことがあったなら、私はあなたを愛します。

 コンビニエンスストアのごみ箱には、大した意味のない日付によって捨てられる弁当類が溢れ、小・中学校から毎日吐き出される大量の残飯が、家畜の餌としても省みられないような、この飽食の時代・・・だからこそ、と言えるのかもしれません。ここの処なぜか目立つのは、年老いた夫婦や親子の、絶望的な"死"のニュースです。誰にも看取られない病死であったり、施しを激しく拒否した上の餓死などと、彼らの死のありさまを聞く度に、わたしの胸の奥でひりひりと痛むモノがあります。
 4月に、路上に廃棄された車の中で生活していた夫婦がひっそりと二人して死んでいるのが見つかったと日記に書いた事がありますが、まさに同じ頃、東京都豊島区のアパートで、ひっそりと餓死した親子が発見されたというニュースがありました。そして、死の直前までその母親が日記を付けていたらしい。
 以下は、無味乾燥な新聞記事から、私が妄想するかれらの絶望と救済・・・
 77才の母親と41才の息子がひっそりと暮らすアパートの一室。病気がちの息子は、部屋の片隅にひかれた布団の中でじっと天井を見つめたまま、もう3日も母親と口をきいていないことに気付いた。なにも話す必要がなかった。1週間前に電気料金を支払ってから、この家には数枚の硬貨以外現金に類するモノは1銭もなかった。食べる物に事欠きながら、それでも請求された金額を支払わずにいられない母親をとがめる事は彼にはできなかった。律儀な母親が30年以上付け続けていた家計簿も、このひと月以上開かれることはなかった。すべてが閉塞し、密室となったアパートで、彼と母親はお互いの命の無意味さを思い知った。二人は"死"は恐れる物ではなく、ただの肉体の消滅にしかすぎないことに気付いてしまったのだ。苦痛も快感も、幸福も絶望も、すべてはちっぽけな自分自身の脳細胞が吐き出した幻想にしか過ぎないのだから、その肉体の消滅は精神の消滅も意味する。それは救いですらありえない。
 なぜなら救いもまた、幻想の一種なのだから。アパートの一室で、彼ら親子は"完全なる虚無"によってその魂は救済されたのかもしれない。

 その母親の日記が「飽食の時代になぜ二人が餓死したのか、背景を明らかにする社会的意義がある」と言う区福祉部の役人の作文によって、区情報公開条例に基づき公開されているらしい。下司な役人の保身から、行政側の対応を非難する声に反論する形で、日記の公開が行われたようだ。その母親の日記を読んでみたい私の思いとは別に、そんな形で行政によって、2度目の"死"を死なねばならない彼らの絶望の深さに、私はまた、自閉の海に溺れてしまうのかもしれません。


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