大槻ケンヂを自称するのは、何だかカッコイイ人みたいだし・・・さっそく顔にイナズマ書いてみたのは、あなたのご想像通りだったりします。ただの危ないオヤヂがそこに存在しただけ。あぁ、声が似てるだけね。何やってんだか、このオヤヂは・・・で、こんなprofileは如何でしょう?お暇な方だけの限定情報。 ・・・誰かが好きだと言ってくれた、哀愁漂う さて、 愚かな作りネタから、本日はご機嫌うかがいの日記であった。クレームは受け付けております。 実は、本日の日記・・・夕方、しらずしらず涎たらして寝てしまって、まるでネタなし。こんな日はどこかからネタを持ってくるに限ります。 最近は日記と名前の入った本がやたら気になったりして、午前中に近くの書店で仕入れてきた文庫本が2冊。色川武大の狂人日記は福武文庫(お仕事は慣れましたか?誰となく)から出ていたので、何年ぶりかで読み返してみたくなりました。 もう一冊は、書名だけで選んでしまいました。文春文庫・青木新門著「納棺夫日記」 葬儀社で遺体をアルコールで拭き清め、仏衣を着せて納棺する人のことを「納棺夫」と呼ぶらしい。業界用語?らしく広辞苑にも載っていない。新明解はどうでしょう?と書くと、なにやらタイ方面の妖しいビデオと同様のスプラッターな場面を想像しがちですが、まるで詩集のような"死"についての書なのです。 ケガレとハレの日本の社会で、何かと忌避の目で見られる職業につくことで深まる彼の死生観は、ほとんど宗教書のようです。"死"と向き合う職業でありながら、実はそこに集まる人間が、肝心の"死"を直視することがない事の矛盾に気づいたとき、彼の"死"に魅了されるココロは生まれたのかもしれません。私も、確かに宮沢賢治の「眼にて云ふ」という詩を呼んだとき、こんな透明感に包まれた世界に住むならば、一度死んでみたいと思ったことがありました。 この世の矛盾を叫んで、夜の闇の中で息を凝らすベルファストの暗殺者も、贅を尽くした宮殿で女を陵辱する王侯貴族も、エイズに冒されたアフリカの子供たちにも、等しく訪れる"死"。それを「救い」と擬態する既製宗教とは無関係に、今夜も人は"死"を、ただ死んでゆくのでしょう。 挫折に満ちた筆者の人生を含めて、救いのないことが救いであることに同意する人にお薦めする、そんな気分にさせてくれる日記です。
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