今日、書店で例の「池袋親子餓死日記」を見つけました。手にとってパラパラと・・・どうしてもレジに持ってゆくことができず、そのまま新刊書の棚に戻しました。 しかし、中身がやはりに気なる私は、もう一度抜き出すと、その場で少し読み始める。 日記ではなく覚え書きと書かれた"それ"は、最初の日付の頃は、私が想像したとおりのつつましやかな家計簿を兼ねた、文字どおりの親子の生活の覚え書きの断片だった。 近所のスーパーで買った菓子パンのひとつひとつの値段を大切に記入していた日記が変質し始めたのは、去年の11月あたりからか?僅かな年金で賄う親子のこれからの生活と、自らの体の不調についての不安が多くなり始めたあたりから、誰かに訴えるように、懇願するように、覚え書きの調子が変わる。 銀行からお金を無事降ろさせて下さい・・・明日のガス代を無事支払わせて下さい・・・無事家賃を支払わせて頂きありがとうございました・・・自らの手によって支払う筈のそうした行為を、何者かの恩寵にすがることで支払えたと感謝することで、辛うじて、一日を終えることができたのかもしれません。再び今日と同じ明日がやってくることの恐怖に耐えるために・・・読み続けるのが苦痛なほどに切迫した生活の様子に胸が詰まります。 しかし、もう初老の筈の我が子をしきりと「子供、子供」と呼び、病弱な息子の髪を刈り、ヒゲを剃ってやる母親の後ろ姿に微かな違和感が残る事もまた確か。うらびれた冬の午後、布団の上に寝た息子の頭をひざに抱えて、うつむいてヒゲを剃ってやる母親の姿に、ギリシャ悲劇から続く母子相姦の匂いを感じるのは、やはり「私だけの不幸の予感」なのでしょうか?
本棚に戻したと書きながら、明日にでも、もう一度出かけて、結局は買ってしまうような気がします。「餓死日記」という書名に、山田花子の自殺直前日記と同じやりきれなさを感じるとともに、"彼ら親子の冥福を祈る"と書く編集者達のおざなりな前書きに疲労感しか感じないのは、私もまた、彼らと同じ共犯者の様な気がするからなのでしょう。
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