大審問官の憂愁 井上嘉浩はやはり泣くべきではなかった。 黙して応えぬキリストが最後に大審問官の唇に接吻するとき、孤立無援の憂愁に包まれていた彼の魂が震撼するのは、自らの孤独を嘆くためのそれではなかった。弁証し糾弾する事で何かを証明しようとする者にとって、つまり神の不在とは・・・自らの存在のまったくの否定なしには一歩もそれ以上先へ進むことができない問題のはずだ。しかし、「自分は修行者として失格だった」と泪ながらに語る井上嘉浩の心の裡には、そう叫ぶことで癒されている自らのエゴが確かに存在してしまったように思える。彼は決して癒されてはならないのだ。 そう、永遠に孤独なままの彼の失意を理解しつつ、尚かつその程度のカタルシスで癒されてしまう平成の絶望の底の浅さに、改めて現代に生きる人間の弱さを思い知らされる。 国家による復讐・あらかじめ定められた断罪に向かって歩くだけの今回の裁判で、死刑以外の量刑が有りえようはずもない井上嘉浩は、"死"について思い惑う必要はない。余りに安易な"絶対的帰依者"への糾弾は、彼の全存在をかけた筈の[オウム真理教」の無価値を証明すると共に、自らの人生もそうだと断言する事に他ならない。逮捕監禁から数ヶ月を経ずして、教団からの脱会を宣言する井上嘉浩にとって、逮捕以前の彼が信じていた筈のモノとは、果たしていったいなんだったのだろう。それとも、彼には信ずべき物など、結局何一つ持ち合わせていなかっただけなのだろうか?空虚な虚無の予感だけに充たされた人生・・・世紀末を生きる人間に共通するひとつのメタファーなのかもしれません。
金曜日にあった「オウム裁判」。いささか時期を逸してしまったのですが、井上嘉浩と言う存在にどうしてもこだわってしまう僕としては、やはり避けて通れない話題なのです。キリストと大審問官、釈迦と雄大。「死霊」自序の中で埴谷雄高が見せたヴィジョンと比べることのあまりの矮小さを思いつつ、尚かつ、麻原彰晃と井上嘉浩の関係性に付いて思うことがありました。
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