もはや事件から8年が過ぎ、34歳と言う彼の年令にある痛ましさを感じるのは、いささか不謹慎にすぎる感想なのかもしれません。しかし、犠牲になった幼児と共に「宮崎勤」もまた、なにやら現代の悲劇に飲み込まれた存在に思えてならないのです。 ゾンビやチェーンソーを持った殺人鬼の徘徊する夜よりも、我が子の死の方が、子供を持つ親にとってはるかに恐ろしい「ホラー」なのだと断言したスティーブン・キングに、子を持つ親として私も同意できます。彼によって無惨に殺された幼児を自分自身の子供の姿に重ねてみれば、なによりその恐怖と怒りは実感できます。しかし、敢えてその先に横たわる私自身の妄想に触れてみるとき、「宮崎勤」を我が子として持ってしまった親の絶望や悔悟、さらには「宮崎勤」本人についても、また思うことがあるのです。 この世に魂が存在するならば、犠牲者のそれは神によって癒され救われるのでしょう。忘れ去るのではなく、癒しの為に消えていく記憶の存在によって、人間は耐えていけるのです。だが、「宮崎勤」の狂気は塀の裡でますますそのぬかるみの深さを増し、果てしのない無明の世界をさまよい続けているようです。そこには、決して癒されることのない底知れぬほどの絶望と孤独に打ちひしがれた魂が、声もなく絶叫している。 精神科医の下す愚かな診断や、検察官・弁護人双方の空疎な法律論の世界には、もはや「宮崎勤」の姿は存在せず、ただ理解不能な狂人が身じろぎもせずに座り、凍り付いた法廷の風景がマスコミを通じて流れてくる。 彼を裁く者は、心理学や国家による復讐劇たる法廷などではないのです。オカルトや連続殺人鬼についての猟奇まみれの風説ではなく、ひょっとすると私達がなり得たかもしれない、それぞれの裡なる「宮崎勤」を裁く者は、やはり私達自身なのでしょう。 私には彼もまた、「宮崎勤」自身の犠牲者のように思えて仕方がないのです。夏草の生い茂るだけの、かつての彼の生家の跡に、傷つきバラバラになった本当の「宮崎勤」の亡骸が埋まっているのかもしれません。離散した家族と自殺した彼の父親・・・犠牲者の連鎖は何重にも錯綜し、いつまでも血を流し続けている。 幼い犠牲者の痛ましさと、事件の猟奇性のみに目を向けることは、結局、事の本質を見誤るのでしょう。しかし、今の私に語るべき結論のないこともまた、紛れもない事実ではあります。 彼が一時務めていた印刷会社に、僕自身入社していたことがありました。僕がやめて数年してから入ってきたようで、勿論面識はありませんが、彼の務めていた製版部門と、僕が仕事をしていたデザイン部門は日々顔を合わせながら仕事をする関係にあり、入社時期が重なっていれば一緒に仕事をしていたはずです。まぁ、面識があったとしても僕とはまったく無縁だったはずで、その事になんの意味もないのでしょう。しかし、直接彼と会っていれば、また違った妄想にとらわれているのかもしれません。
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