デーテーペーな1日

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10月10日(Thu)
 東京オリンピックの開会式が行われたのが、1964年の10月10日の事だった。その日を記念して今日が「体育の日」として国民の祝日と定められたわけだが、そこから僕が連想する「ふたつの日付」があります。ひとつは同じく1964年10月21日。もうひとつがそれから4年後の1968年1月9日です。
 10月21日の代々木の国立競技場・・・そこには一人の男が喘ぎながら懸命に走っていた。4年後、まだ正月気分の残る1月9日には、同じ男が自らの頚動脈をかき切って血まみれで死んでいる。

 そう、絶えようもなく哀切な記憶の中で孤独に死んでいった長距離ランナー「円谷幸吉」のことです。

 日本人の血の中に潜む狂気を連想させる彼の遺書が、まず僕の記憶の奥深くにいつもある種の違和感の様に残っています。

父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。

干し柿、モチも美味しゅうございました。

俊雄兄、姉上様、お寿司美味しゅうございました。

克美兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。

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 以下、延々とこの正月に帰った田舎での肉親への礼が続き、最後に両親への謝罪で終わるこの異様な遺書のもつ、哀切さと狂気の匂い。うわごとのような「美味しゅうございました」のくり返しと、表面的には冷静な印象を与えながら、実は徹底的に他者と交わることを拒否している文章は、追いつめられ、やがて自らの肉体にたいする憎しみに変わった孤独な魂のあげる絶望的な叫びのように僕には思えるのです。
 「日本」を象徴するような地方の大家族の中で育ち、さらには自衛隊というやはり家父長的集団で自己を見つめ続けてきた「円谷幸吉」にとっては、肉親に宛てた遺書は日本人そのものへ宛てた遺書でもあったのでしょう。絶望と反発を決して他者に向けることなく、自らの裡へ裡へと深く沈んでゆく彼の魂のありようがとても痛ましいのです。
 4年ごとにくり返されるオリンピックの年の正月を自分の家族の住む田舎で祝い、一人で東京の自衛隊宿舎へ帰ったのが1月5日。誰の記憶もない数日の後・・・追いつめられ閉塞していく周囲の重圧に絶えきれなくなった彼が手にしたカミソリは、自分自身はもとより、日本の「家族」の持つ残酷な優しさへ向けて振り下ろされたのかもしれません。

 夭折した人間が備えていた「思い」は、徐々に変質しながら確実に生き残った人間の心に受け継がれていくのでしょう。言葉少ない人の「思い」は、それ故にいろいろな人間の裡でかたちを変えながら伝わっていくのかもしれません。語り得ない「思い」を語ること・・・それが妄想であることを承知の上で、なおも僕はそんな作業をくり返すのかもしれません。


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