今日、いつもの書店にいくと"あの"山田花子の本が平積みしてありました。それも、一番目立つ場所に「神の悪ふざけ」含めて3種類が一度に。 確かに、自殺直前日記などと云う、いかにも際物じみた本ではじめて彼女の存在を知った僕は、肝心の彼女の書いたモノを実際にみたことがありませんでした。断片的な絵と痛ましさに胸が詰まるような、孤独な彼女のモノローグを読んだだけの読者でした。そして何よりも、深く傷つきながら、それ故に求めずにはいられない「思い」にじっと耐えているような彼女のプロフィールに魅せられていました。微妙に中心線を外した彼女の視線のなかに、過剰な苛立ちに押しつぶされそうな彼女の叫びを見てしまったような気がするのです。 恐らく、直接的な彼女の死の原因となった「漫画家・山田花子」の軌跡を見てみたいと思いながら、実際に書店に平積みになっているのを見ると躊躇してしまうのは何故でしょう?センチメンタリズムや同情で読まれる事は何より、彼女にとって耐え難いはずです。そうした壊れやすい彼女の思いの詰まった本が、郊外型の大型書店に山積みになっている事が、何故か許せない気がするのです。 多分、独りよがりな僕の妄想なのかも知れません。しかし、夭折した者にことさらに脚光をあて、なにやら彼女の青春の挫折を弄ぶような風潮と、その事がビジネスに結びついてしまうことが耐え難いのです。 手に入らないからこそ、僕の裡で輝いていた彼女の記憶がその光を失うことを恐れているだけなのでしょう。 結局、表紙と帯の惹句を読んだだけで中を開かないまま、少し乱れていた平積みの山をまっすぐに揃えると、そっと元に戻しました。 どうも、妙な具合で彼女の存在を知ったばかりに、ごく当たり前に彼女の漫画に接することができなくなってしまいました。彼女の作品と出逢うのは、どこかの古書店の店先に積まれた1冊100円の特価本のワゴンの中であって欲しいと思っていただけに、不意をつかれた気がします。なにやら「山田花子ブーム」なのでしょうか?同名ということで、「山田かまち」と一緒に語られたりしたら、何だか僕はイヤです。
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